「昔に比べて大人になったね」
 この言葉をもう何回聞いたか、覚えてる人はいないんじゃないかと思う。そのたんびまあ『そんなに成長したとは思わないけど』みたいに思ったりしながらも、まあ大体の人はまんざらでもない気持ちでいたんじゃないかと思う。だってそれは僕がそうだったし、成長は良いことなんだから。
 でも、それを言われた時に【失ったもの】も数えてしまうのが僕の癖だから、今回はそういう話をしたい。
【大人になる事】は、必ずしも成長とは限らないんだから。

 その人たちが思ってる大人って言うのは十中八九【健やかに育ち家庭を持って、時々残業しながらも家族サービスとかもする存在】なんだよ、特に自分の息子に言う者に関しては。
 健やかに育ったとも思えなくて、家庭を持てるような人間だとも自分で思えなくて、及第点少ししたぐらいの人生が予想出来てる。
 自分が登ってる大人の階段とやらが、最終的に9時~21時前後の仕事に片道1時間電車に乗って行って、営業職でも何でも家に着いたら疲れて酒を飲んで夕飯を食べて酷い日は布団を敷くのも面倒になって、少し誇張して言えばチカチカ光る蛍光灯の下で11時ごろ一升瓶抱えて寝るみたいな。それが行きつく先な気もするし、何ならその人生はさして平均以下でもないんじゃないかなんて思えて来て。趣味も持てるとか持てないかとか、そういう悪く言えば【健康なだけ】の生活或いはそれすらない生活。生きるに不自由はない、でもそれだけ。
「思い出話をしている時って一番ドーパミンが出るそうですよ、大人って」
 いつかにYoutubeで見た言葉、初めて聞いた時にぞっとした。どうやって大人に憧れたらいいのかも見えなくなった。
 健やかに個性を伸ばして、いっぱい役職を学生時代に経験して、一端の人間になっているのが人間として正解なんだろうなと思うと、私は何をしてきたのかと言いたくて仕方が無くなる。だって、今正解と仮定した人も全員が全員成功してるわけじゃない。
「努力した人が全員成功するわけではないが、成功する人は全員努力している」
なら努力してこなかった私に成功がある筈がないと言う話になってくる。
 テストの点数競うのも気持ち的に何か違うよななんて思いながらも、未来にはそれすらも青々とした青春の1ページとして刻まれるのかと思うと、未来がくすんだものに見えて来てしまって。
 【小学生の頃の無邪気さ】が小学生の頃の僕にあったわけでは断じてないけど、でもその頃は一番不必要なことを無限に考えてた時期で、それがやっぱり楽しかった。
 今も楽しいけど、成長の過程としてその楽しみが消えたのを感じて来ると、どうしてもやるせなくなるんだ。
 心の脳漿が減ってきて、思考が一様になるような。最低限の道徳を得るために必要以上に個性を削られてるような。
 年齢が上がればどんどん規則も緩くなって自由は増えていくはずなのに、どうして昔を懐かしむのか。どうしてどんどん大人しくなってしまうのか。どこに活力を置いてきたのか。今日もそんなことだけ考えて眠る。
 そうやって現実を見ようとしないから今も変われないというのに、僕にはそれがわからないらしい。またいつかには、先に進めるのだろうか? 正解が見つかる時は来るのだろうか?