臓器売買を題材にした良質の犯罪小説。
であると同時に、信仰の本質について深く考えさせられる物語であった。
かつて南米大陸のアステカ帝国で崇められた「テスカトリポカ」という神がいた。
その名が意味するところは、煙を吐く黒曜石の鏡。他にもいくつかの名前を持っている。
太陽が明日も昇り続ける事を保証する代わりに生け贄を要求する荒ぶる神である。
生け贄は文字通り生きたまま心臓をえぐり出され、皮を剥がされたと云う。世界でも稀に見る凄惨さではなかろうか。
その血塗られた信仰を現代に至っても持ち続ける二人の男が主人公である。
一人はバルミロ。元は南米の麻薬カルテル幹部であったが抗争に敗れて家族も地位も失い、流浪の果て日本に流れ着き、身寄りの無い子供の臓器売買にビジネスの活路を見出し、手を染めるようになる。彼の目的は儲けた金で武力を蓄え、家族の仇に復讐する事である。その筈であった。
彼の行動力と冷酷さに惹き付けられるのは読者だけでない。闇医者にテロリスト、サイコパスの半グレや薬物中毒の保母さん、善良なナイフ職人など多種多様な人々を巻き込んで、闇の事業を完成させていく様は背徳的なカタルシスを読者に体験させてくれる。
もう一人の主人公はそんなバルミロの引力によって引き寄せられた群衆の中の一人、混血の青年コシモである。
彼の母親も南米出身だがバルミロとは立場が違う、麻薬によって人生を狂わされた被害者である。カルテルに兄を殺されて故郷を逃げ出し、流れ着いた日本でヤクザ者の子を生み、荒んだ生活の中で憎んでいた麻薬に助けを求めてしまう。
そんな境遇に生み落とされたコシモは、体格と才能に恵まれた非凡な少年であった。
普段は木彫りなどして遊んでいる大人しい子供なのだが、ひとたび自らの平穏が脅かされると獣のような本性が牙を剥く。
やがて父親の度重なる虐待が原因で思春期を少年院で過ごす事となったコシモは、手先の器用さを買われてナイフ職人に弟子入りする事となるのだが、その内に秘めた闘争心を上層部のバルミロに見出され、戦士としての道を歩む事になる。
幼少期に導く者がいなかった反動からか、乾いた土が水を吸い込むように、コシモは従順に教えを飲み込んで血肉としていく。
ナイフの作り方、銃器の扱い、そして「テスカトリポカ」の教義。
バルミロは「テスカトリポカ」の神官の末裔であり、現代における犯罪行為を通して教義を実践する敬虔な信徒であった。
彼の中で敵の皮を剥がし、子供の心臓を生きたままえぐる行為は、生け贄を捧げる聖なる奉仕であり、神の教えと矛盾しない。
コシモもその信仰を受け入れ、二人は師弟の絆を超えた親子となるのだが――。
では何故そんな二人が道を分かつ事になったのか?
私はこの問いこそがこの物語の核心だと思っている。
仏教的な見方をすれば、これは因果応報の物語だとも言える。バルミロの行いの因果の帰結としてコシモが裏切ったのだ。
南米で麻薬を売り、日本で身寄りのない子供を食い物にしているバルミロに対して、麻薬に人生を狂わされて天涯孤独となったコシモには復讐の資格がある。直接的な動機とはならないかもしれないが、いずれはこうなったのではないかという予感もある。
では「テスカトリポカ」の教義に照らし合わせた見方をするとどうか。
宗教の利点として人心を束ね易く、正当化に適しているという側面があるが、バルミロはこれを利用していたのではないかと思う。
戦闘員に虐殺を指示し、子供の心臓を売り捌く。それは金の為でなく、神の意思だという方便だ。
本質的に倫理に背く行為は人間に精神的ストレスを発生させる。それは善人も悪人も変わらない。だから犯罪を犯すマフィアも神に許しを乞い教会に通ったりする。
おそらく無意識下で、その心理的抵抗を軽減する為にバルミロは宗教を利用していた。
しかし、それは神の視点からすると、人間の裏切りと映らないだろうか?
一方、より純度の高い信徒であったコシモには啓示が下される。
バルミロが認知できなかった「テスカトリポカ」の実体を、コシモは確かにその目で見る事が出来た。
見えない神を語り利用するバルミロと、見える神になお信仰を強くするコシモ。
生け贄となるのは果たしてどちらなのか、結末は是非読んで確かめて欲しい。
バルミロは心のどこかで自覚していたのだろう。
何故なら彼も最後には「テスカトリポカ」に出会い、日本に来た本当の理由を知る事が出来たからだ。
最後に、主人公ではないが他にも魅力的な登場人物が何人もいるので、その中から一人を紹介させて欲しい。
名前はパブロ。初めにコシモが師事するナイフ職人である。
彼は司法機関から見ればバルミロの共犯と目される人物だが、根は善良な男であり、悪の道に迷い込むコシモに心を痛め、勇気を振り絞って忠告する場面がある。情景が美しく目に浮かぶ、私の好きなシーンの一つだ。
そこでパブロがコシモに贈ったのは聖書から抜粋した一つの文句であった。そのフレーズをもって締めさせていただきたい。
『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行ってまなびなさい。
神は強制しない。最後の選択は人の手に委ねられている。
私はそう解釈している。