ぅっはイ、北国にお住まいの方には笑われるでしょうけれども寒いもんは寒い!と明日のババシャツババズボンをどのよーな組み合わせにしようか真剣に考え中のわたしですこんばんは☆←
ええと。
タイトルは、みえるもの=理解できるもの・理解しようとするひとの目
みえないもの=理解できないもの・理解しようとしないひとの目
っつーふうにもとっていただいて結構です。
まあ、わたしが今回記事にしたいのは、『科学的な数値ですべてがあらわせるような、誰が見ても物質や成分として現存するモノ』がすべてじゃあないよね、ってことで、うーわー自分で文章書いててもわっかりづらいですね!と思うのでこういったクドくて退屈なのはいらんわ!という方は華麗にスルーしてくださいね☆
少数派、で、同じ感覚の共有が難しいものを分かち合うとか、『本当に、これはあるんだ!』って証明するとかね、わたしはそれは無理矢理ならばしなくていいと思います。
けれど、手で触れられる、目に見える、音が聴こえる、匂いがするというリアルのモノだけが、『すべて』では決してない。
さわれなくて、見えなくて、なんの音も匂いもしなくて、大多数のひとには『あるのかないのかわからないよ』って判断されるものでも。
なんかこう乱暴な表現ですが、あるものはあるのです。
妄想でも空想でもまあ精神的にちょっと大丈夫?でもいいですが。
なんのナもつけられない、特徴も言えないようなものでもアるものはアる。
それは、まあとりあえずわたしのなかでは、絶対に否定できないものなのです。
第六感、とか、虫のしらせとかさ、そういう『感覚』が『どういうものなのか』ってわかりやすく説明はできないし。
そんなの気のせいでしょって片づけちゃえばそれまでだし。
ただ、わたしはね。
わたしの、とってもたいせつなひとが、どこかで泣いていたり。苦しんでいたりって、もし、していたらさ。
その時に、わたしはそのひとのそばにはいなくても、なにか。
なにか、ほんのちょびっとだけでも、離れて泣いているそのひとのとこに、わたしがあると思うのです。
わたしはへっぽこで、なーんにも気付かないし感じなくてもそれでも。
『わたし』が、なにか、在ると思うのです。
・・・・う~ん、我ながら意味不明!!!!!爆
あとねえ、ジブンの価値観と、自分の正義、その尺度でさ。
誰かの想いの上澄みだけをしゃらっと掬って。
その上澄み成分を、ジブンのなかの構成物に当てはめて、考察して、理論を構築するってね、それはそれでまあある意味なにかにはつながるかもしれないね?と思ったりもするけれど。
表面だけの、う~ん、こう玄関の前に立ってその建物の全体像を見る、とか、その建物の中にどんな家具がどんなふうに配置されててどんな内装の部屋なのか。
玄関の外に立って見てるだけじゃわからんから、ジブンの見てきたおうちの中に当てはめて考えるって、それはその建物の中=誰かの想いからは思いっきりずれてしまってるってある。
なんかのCMにあった、占い師と女の子の対話みたいにさあ、『二階のトイレが。。。』『トイレは一階にありますけど』みたいな?(苦笑)
鬼の首取ったどー!みたいに糾弾するよりは、上澄みだけじゃあなくて自分以外のだれかの想いを深く、深く、理解できるように頑張ってみよう、とか。
どんな気持ちで、このコトバを選んだのかなあ、どんなことがあって、いまこうしているのかなあ、ってしたほうが、素敵だと思うのです。
誰かの想いが、気持ちが建物なんだとしたら。
玄関のドアノブに手をかけて、そっとその中に足を踏み入れる。
もちろん、ちゃんと靴の泥は落として、お邪魔しますって一声かけて、お行儀よくね、入るってそれは。
そのひとの、気持ちに寄り添うってカタチなんじゃないかなあって思います。
ミえないモノで、鮮やかな感情の印象だけが強烈だとか。
理由は知らないけれど、こういう空気、雰囲気の時にああ、こういう気配はたくさんいるよねとか。
分かち合うモノとしては、やっぱりきっと難しい。
だけど、ここにあるもんはあるから、それはもうなんかわたしだけがわかってるってことでもいいかなあって思う。
産まれたときからある、みんな当たり前に持ってると思ってた感覚が実はちょびっと違うものだった、ってときにはビミョーにショックだったけれども。
世界がうつくしいとかいとしいとか。
感じるところはなんかわたしは得してるって思うので。
今夜も。
感謝します。
こころから。
ありがとう。
あいしているよ。