何度か妻に碁を教えようとした。でももう諦めた。

何が解らないか聞いてもそれも答えられずに座っている。

碁盤と碁石を見て、天球儀でもみているような眼の焦点だ。

 

私は学生時代の友人の影響で囲碁を覚え、説明すると長くなるけどスペインの棋院へ親善で行くことになったりして、数年のうちに、ある程度強くなった。

今でもそうなんだけど、思考するときには頭の中に碁盤がある。囲碁のことを別称「手談」ともいうように、これは会話するときのリズムなんだ。

 

「耳赤の手」という伝説の一手がある。

江戸時代末期、本因坊秀策が井上因碩との対局中、八方を見据えた名手を放った。

その手を打たれて狼狽した因碩の耳が見る見る赤くなったという逸話からその名が付いた。

 

耳垢をほじってもらうとき、「ミミアカ」繋がりで思い出し、妻にそのエピソードを話した。

すると妻は、「何度も聞いた」という。

そりゃ前にも話したことがあるかも知れないが、そう何度も話したはずがない。

きっと2回以上は「何度も」ってことになるのだ。

 

そしてきっと同じように、彼女と交わす言葉は有限でも、どこかで無限だったということになるのだ。

 

ハンディとして置き石をした碁盤に私が白石を打つ。

彼女が次の黒石を、とんでもない宇宙に打ち放つ。

それを見て私は恋をして耳が赤くなる。

恋は言い過ぎだが、私も天球儀を見るような目の焦点に。