まず“砂”について書いてある部分を抜粋します。

 

 《砂ーーー岩石の砕片の集合体。時として磁鉄鉱、錫石、まれに砂金等をふくむ。直径2~1/16m.m.》

 

 いかにも明瞭な定義である。砂とは要するに、砕けた岩石のなかの、石ころと粘土の中間だということだ。しかし、単に中間物というだけでは、まだ完全な説明とは言いがたい。石と、砂と、粘土の三つが、複雑にまじり合っている土の中から、なぜとくに砂だけがふるい分けられ、独立の沙漠や砂地などになりえたのか?もし単なる中間物なら、風化や水の侵蝕は、岩肌と粘土地帯とのあいだに、互いに移行する無数の中間形態をつくりえたはずである。ところが現実に存在するのは、石と、砂と、粘土、はっきり区別できる三つの相だけなのだ。さらに奇妙なことには、それが砂であるかぎり、江之島海岸の砂であろうと、ゴビ沙漠の砂であろうと、その粒の大きさにはほとんど変化がなく、1/8m.m.を中心に、ほぼガウスの誤差曲線にちかいカーブをえがいて分布していると言うことである。

 

文章は砂の流体力学の話になります。1/8mmという大きさが、環境の中でもっとも移動や集積に適した大きさであるというのです。

 

 そこで、さきの定義につけ加えればーーー

 

 《・・・・・・なお、岩石の破砕物中、流体によってもっとも移動させられやすい大きさの粒子。》

 

 地上に、風や流れがある以上、砂地の形成は、避けがたいのかもしれない。風が吹き、川が流れ、海が波うっているかぎり、砂はつぎつぎと土壌の中からうみだされ、まるで生き物のように、ところきらわず這ってまわるのだ。砂は決して休まない。静かに、しかし確実に、地表を犯し、亡ぼしていく・・・・・・

 その、流動する砂のイメージは、彼に言いようのない衝撃と、興奮をあたえた。砂の不毛は、ふつうに考えられているように、単なる乾燥のせいなどではなく、その絶えざる流動によって、いかなる生物をも、一切うけつけようとしない点にあるらしいのだ。年中しがみついていることばかりを強要しつづける、この現実のうっとうしさとくらべて、なんという違いだろう。

 たしかに、砂は、生存には適していない。しかし、定着が、生存にとって、絶対不可欠なものかどうか。定着に固執しようとするからこそ、あのいとわしい競争もはじまるのではなかろうか?もし、定着をやめて、砂の流動に身をまかせてしまえば、もはや競争もありえないはずである。現に、沙漠にも花が咲き、虫やけものが住んでいる。強い適応能力を利用して、競争圏外にのがれた生き物たちだ。たとえば、彼のハンミョウ属のように・・・・・・

 流動する砂の姿を心に描きながら、彼はときおり、自分自身が流動しはじめているような錯覚にとらわれさえするのだった。

 

砂は、どうしようもない自己自身でもあり、神が人類に投与した、どうしようもない人生を繰り返させる遺伝子のようでもあります。

 

 八月のある日、男が一人、行方不明になった。休暇を利用して、汽車で半日ばかりの海岸に出掛けたきり、消息をたってしまったのだ。捜索願も、新聞広告も、すべて無駄におわった。

 

これが冒頭です。昆虫採集に出掛けると家人に告げて男がそのまま戻ってこなかったという余り珍しくもない出来事を淡々と語っています。作者はその出来事の中心に読者を誘拐し隔離します。いつしか読者は社会面の小さな記事の当事者になっています。 

 

 こうして、誰にも本当の理由がわからないまま、七年たち、民法第三十条によって、けっきょく死亡の認定をうけることになったのである。

 

ある砂丘に昆虫を探しに向かった男は、そこで砂の横暴から部落を守る砂丘の住民達の住む村に迷い込みます。

一軒一軒の家屋は吹き付ける砂に抗って存在しています。

日々降り積もる砂を掻き出し、塩分の多い劣悪なコンクリートになることを承知でセメント業界にだまし売りしては住人に食べ物を与え、村は存続を維持しています。

そのうちの一軒、三十前後の未亡人の小屋に泊めてもらうことになった男、実は村の計略で、二度と砂の生活から逃げられない運命を抱いてしまいます。

逃亡も試みますが、アリ地獄のようにまた砂に吸い込まれる人生。

あきらめて女と擬似夫婦の生活を続けますが、男は砂から水を取り出す簡単な蒸留装置を発明して達観し、人間は昆虫と変わらないほどの小さな行為のもとに存在するという、真実に目覚めていくのです。