物語の視点である信吾は老人です。老人が主人公です。

 

 尾形信吾は少し眉を寄せ、少し口をあけて、なにか考えている風だった。他人には、考えているとしか見えないかもしれぬ。悲しんでいるように見える。

 息子の修一は気づいていたが、いつものことなので気にはかけなかった。

 

最近の作家は読み易くとも、物語が内的時間でしか経過していかないのです。

文学史上の作家、たとえば川端は、自分の外に起こっている外的な時間の経過を描けるから、老人の視点で書けるのだと感じます。

外的時間に晒されながら、自分ですら老いの裁きを受けるなどして真の悲しみを告げるのですよ。

 

川端康成について私は何度も距離を測ってきました。

川端作品の中で主人公は決まって若い女性に接近するくせに、なぜ恋に苦しまずにいられるのか。(苦しまない主人公はいつも立体感が無く、まるで離脱した魂を思わせた)

苦しまない人生に真実はあるのか、と。

この作品には老いの苦しみがありました。

 

私が「内的時間」と「外的時間」と書いて問題にした「時間」は、実は「意識」でした。

日常に流れる意識と、記憶の断片を繋いで流れ現実の行動を司る無意識。

『山の音』は、意識の二重構造をつかって描いています。

 

同じ人生の二つの階層で同時に流れる時間(または意識の流れ)をどう表現しているかというと、

 

まず老いに関する恐怖がある。

物忘れがひどくなった老年の姿が描き出されている。

後半では、毎日結んでいるはずのネクタイの結び方が急に判らなくなる。

白髪が増えていく。

そして死の影。

見舞いに行った友人が死んでいく。

 

そのような暗い無意識の流れが最下層にあり、上の階層に流れる日常の意識変化にまるで黄砂でくすんだような空色を与えています。

 

その人生のくすみ色具合を表題の「山の音」という音感で作品の底流に流しました。

少し長い引用

 

 月夜だった。

 菊子のワン・ピイスが雨戸の外にぶらさがっていた。だらりといやな薄白い色だ。洗濯物の取り入れを忘れたのかと信吾は見たが、汗ばんだのを夜露にあてているのかもしれぬ。

「ぎゃあっ、ぎゃあっ。」と聞こえる鳴声が庭でした。左手の桜の幹の蝉である。

蝉がこんな不気味な声を出すかと疑ったが、蝉なのだ。

 蝉にも悪夢に怯えることがあるのだろうか。

 蝉が飛びこんで来て、蚊帳の裾にとまった。

 信吾はその蝉をつかんだが、鳴かなかった。

「おしだ。」と信吾はつぶやいた。ぎゃあっと言った蝉とはちがう。

 また明りをまちがえて飛びこんで来ないように、信吾は力いっぱい、左手の桜の高みへ向けて、その蝉を投げた。手答えがなかった。

 雨戸につかまって、桜の木の方を見ていた。蝉がとまったのか、とまらなかったのかわからない。月の夜が深いように思われる。深さが横向けに遠くへ感じられるのだ。

 八月の十日前だが、虫が鳴いている。

 木の葉から木の葉へ夜露の落ちるらしい音も聞える。

 そうして、ふと信吾に山の音が聞えた。

 風はない。月は満月に近く明るいが、しめっぽい夜気で、小山の上を描く木々の輪郭はぼやけている。しかし風は動いていない。

 信吾のいる廊下の下のしだの葉も動いていない。

 鎌倉のいわゆる谷の奥で、波が聞える夜もあるから、信吾は海の音かと疑ったが、やはり山の音だった。

 遠い風の音に似ているが、地鳴りとでもいう深い底力があった。自分の頭のなかに聞えるようでもあるので、信吾は耳鳴りかと思って、頭を振ってみた。

 音はやんだ。

 音がやんだ後で、信吾ははじめて恐怖におそわれた。死期を告知されたのではないかと寒けがした。