初期の牧歌的な作品(飼育、芽むしり仔撃ち、など)からのターニングポイントとなる作品です。
息子さんで音楽家の大江光氏が生まれたときの話。
 
ドナルドキーンが「この作品のエピローグは書かなくても良かった、が、そのエピソードにこそ大江健三郎の精神が宿っている」と言う意味のことを言っていました。
 
冒頭の文章です。鳥(バード)というのが主人公です。
 
 鳥は、野生の鹿のようにも昂然と優雅に陳列棚におさまっている、立派なアフリカ地図を見おろして、抑制した小さい嘆息をもらした。制服のブラウスからのぞく頸や腕に寒イボをたてた書店員たちは、とくに鳥の嘆息に注意をはらいはしなかった。夕暮れが深まり、地表をおおう大気から、死んだ巨人の体温のように、夏のはじめの熱気がすっかり脱落してしまったところだ。誰もが、その皮膚にわずかにのこっている昼間のあたたかさの記憶を無意識のうす暗がりのなかで手さぐりする身ぶりをしては、あいまいな嘆息をもらしている。六月、午後六時半、市街にはすでに汗をかいているものはいない。しかし、鳥の妻は、ゴム布の上に裸で横たわり、撃たれて落下する雉子のように目を硬くつむって、体じゅうのありとあらゆる汗穴から、膨大な数の汗粒をにじみださせ、痛みと不安と期待に呻き声をあげているだろう。
 
鳥の妻は産婦人科で最後のがんばりを見せているところ。
 
鳥は書店でアフリカの地図を買います。アフリカ旅行は彼の非現実な妄想として(そのための貯金はしているものの)描かれていますが、後半で俄に現実味を帯びてきます。
そこに出産の連絡が。。。
 
「まず、現物を見ますか?」とその場に不釣合に大きい声でいった。
「死んだのでしょうか?」

 
「そうだな、突然見ると、驚きますよ、出てきたときにはわたしも驚いたから!」
 院長はそういうと思いがけないことに、ぶあつい瞼をさっと赧らめて子供じみたクスクス笑いをもらした。

 
生まれた子は脳ヘルニアだったのです。手術できる体力があるかどうか試すために、新生児には、ミルクの代わりに砂糖水が与えられます。鳥は、我が子がそのまま衰弱死してしまうことを祈り始めました。その存在は、彼にとってアフリカ旅行の夢をうち砕くもの。。。恐怖。。。あるいは彼の退廃的な生にとりついた亡霊。

 
彼は女友達、火見子を訪ね、ウイスキーで酔いつぶれ、翌日、二日酔いが元で予備校教師の職を失ってしまいます。
 
鳥の逃避先、火見子。
 
脳裏に奇形の赤ん坊の亡霊が宿り、通常の性行為ができなくなった鳥に対して、彼女は、「裏」の器官すら差し出して、男を癒します。
 
 
 鳥が快感に痙攣するたびに火見子は鋭い苦痛の悲鳴をあげた。鳥はなかば失神しながら、それを聞いた。そして突然、鳥は憎悪にたえないとでもいうように、火見子の肩のつけねを噛んだ。火見子が新しく強い悲鳴をあげた。鳥は眼をみひらき、貧血した火見子の耳たぶから頬へひとつぶの血のしずくが、みずみずしくしたたりおちてゆくのを見た。鳥はもういちど呻いた。
 
病院では、鳥に対して妻の詰問が続きます。まだ赤ん坊を見ていない妻には、心臓に欠陥があって大学病院で手術を受けるとしか言ってありません。
 
「みすぼらしいドブ鼠みたいね、鳥」と妻は油断した鳥を不意打ちした。
 
「お母様は、あなたが、もう一度飲みはじめるんじゃないかと心配しているわ、鳥。あなた流の際限もない飲み方で、昼も夜も、いつまでも」

 
「あなたは、たびたび、アフリカへ出発する夢を見てスワヒリ語で叫ぶのよ。そのことをわたしはずっと黙っていたけど、あなたは自分の妻や子供と一緒に地道な生活をすることを本当には望んではいないわ、鳥」

 
「あなたは、わたしが妊娠したことを知らせた時、いろんな強迫観念のアリの大群にまつわりつかれたじゃない?あなたは本当に赤んぼうを望んでいたの?」

 
「赤んぼうのことで、あなたを信頼していいのかどうかを考えていてわたしはあなたを、知りつくしてないと思いはじめたのよ。あなたは自分を犠牲にしても赤んぼうのために責任をとってくれるタイプ?」

 
「鳥、あなたは、誰か弱い者を、その人にとっていちばん大切な時に見捨ててしまうタイプじゃない?あなたは、菊比古という友達を、見捨てたでしょう?」

 
「あなたが、赤んぼうを見殺しにしたら、わたしは、あなたと離婚するだろうと思うわ、鳥」
 
 
この小説、「鳥(バード)」って、あだ名で書き進めているところに独特のムードがあります。鬱蒼とした樹木のイメージ。
そして、アフリカ地図を広げ、スワヒリ語でうわごとを言う鳥。
そわそわと、いつでも妻や子供から逃げ出しそうな鳥。。。