芥川が自殺した作家だと知ったとき、自殺した作家の名を冠した賞が果たして名誉かと感じました。反撥を弓にして芥川を射るように読みました。読後、少しは感じました。死ではなく、彼の生を。
 
命を絶つ前に、芥川の机の上にあった原稿が、『或阿呆の一生』で、抽斗の中にしまわれていたのが、『或旧友へ送る手記』です。
 
 
 僕はこの原稿を発表する可否は勿論、発表する時や機関も君に一任したいと思っている。
 君はこの原稿の中に出て来る大抵の人物を知っているだろう。しかし僕は発表するとしても、インデキスをつけずにもらいたいと思っている。
 僕は今最も不幸な幸福の中に暮らしている。しかし不思議にも後悔していない。ただ僕のごとき悪夫、悪子、悪親を持ったものたちをいかにも気の毒に感じている。ではさようなら。僕はこの原稿の中では少なくとも意識的には自己弁護をしなかったつもりだ。
 最後に僕のこの原稿を特に君に托するのは君の恐らくは誰よりも僕を知っていると思うからだ。(都会人という僕の皮を剥ぎさえすれば)どうかこの原稿の中に僕の阿呆さ加減を笑ってくれ給え。

 
           昭和二年六月二十日
                           芥川龍之介
    久米正雄君
 
 
『或阿呆の一生』の冒頭です。芥川の文章の中で唯一推敲されてない文章かも知れません。最後の段が少し乱れています。
 
一の「時代」から五十一の「敗北」まで、想い出を語り、綴っていきます。「彼」と出て来る箇所は、すべて芥川自身の事です。
 
 一  時代

 
 それはある本屋の二階だった。二十歳の彼は書棚にかけた西洋風の梯子に登り、新しい本を探していた。モオパスサン、ボオドレエル、ストリントベリイ、イブセン、ショウ、トルストイ、・・・
 そのうちに日の暮は迫りだした。しかし彼は熱心に本の背文字を読みつづけた。そこに並んでいるのは本というよりもむしろ世紀末それ自身だった。ニイチェ、ヴェルレエン、ゴンクウル兄弟、ダスタエフスキイ、ハウプトマン、フロオベエル、・・・
 彼は薄暗がりと戦いながら、彼らの名前を数えていった。が、本はおのずからもの憂い影の中に沈みはじめた。彼はとうとう根気も尽き、西洋風の梯子を下りようとした。すると傘のない電燈が一つ、ちょうど彼の頭の上に突然ぽかりと火をともした。彼は梯子の上に佇んだまま、本の間に動いている店員や客を見下した。彼らは妙に小さかった。のみならずいかにもみすぼらしかった。
「人生は一行のボオドレエルにも若かない」
 彼はしばらく梯子の上からこういう彼らを見渡していた。・・・
 
 
「彼」(芥川)は、実にきれいな文章を書きます。しかし、高見から見下ろすような姿勢は、誰かに裁きを求めているかのようです。
芥川の生みの母は、精神的な病のため、ほとんど彼を育てていません。
母の実家の芥川家に引き取られた彼が10歳の時に実母はなくなります。
二は、その母の死を即物的に謳ったもの。
 
 
   八   火花

 
 彼は雨に濡れたまま、アスファルトの上を踏んで行った。雨はかなり烈しかった。彼は水沫の満ちた中にゴム引の外套の所宸?エじた。
 すると目の前の架空線が一本、紫いろの火花を発していた。彼は妙に感動した。彼の上着のポケットは彼らの同人雑誌へ発表する彼の原稿を隠していた。彼は雨の中を歩きながら、もう一度後ろの架空線を見上げた。
 架空線はあいかわらず鋭い火花を放っていた。彼は人生を見渡しても、何も特に欲しいものはなかった。が、この紫色の火花だけは、---凄まじい空中の火花だけは命と取り換えてもつかまえたかった。
 
彼には肯定すべき物が少なかったようです。最も肯定する物は、この紫の火花だと言います。事故の中で偶発的に見出す鮮烈な美を。
 
 
 十一    夜明け
 
 夜は次第に明けていった。彼はいつかある町の角に広い市場を見渡していた。市場に群った人々や車はいずれも薔薇色に染まりだした。
 彼は一本の巻煙草に火をつけ、静かに市場の中へ進んで行った。するとか細い黒犬が一匹、いきなり彼に吠えかかった。が、彼は驚かなかった。のみならずその犬さえ愛していた。
 市場のまん中には篠懸が一本、四方へ枝をひろげていた。彼はその根もとに立ち、枝越しに高い空を見上げた。空にはちょうど彼の真上に星が一つ輝いていた。
 それは彼の二十五の年、___先生に会った三月目だった。

 
 
先生とは夏目漱石のことです。『鼻』を発表後、この年に門人となりました。
このころの芥川、輝いていたような気がします。