「統一教会の表と裏」

 

ユーチューブで田中元会長の「内部会議」という録音テープを聞いた。

田中会長に向かって、信者がこのように言う内容のものだった。

 

「田中会長は霊感商法はやっていないと言っていました。

やっていたではないですか。私はやっていました」

 

田中会長がどう答えるのか興味津々で聞いた。

「教会自体は霊感商法をやっていないという主張です。

 

「仮に私が霊感商法を組織だってやっていました」と言った

瞬間に今までの裁判がひっくりかえってしまいます。

それくらい大きなことです。

 

信徒のサークルがやっていた。法人としてはやっていない。

やっていないとしか言えない。

 

信徒たちの行き過ぎた行動に対しては真摯に向き合って

いかなければいけないし、整理もしていかなければならない。」

 

聞いていた印象としては、統一教会で霊感商法は組織だって

やっていたが、それを私の口からは言えない。

忖度してほしいというような内容に受け取れた。

 

信者の聞きたかったことは真実か虚偽かだと思うが、

田中会長は本音と建前の話にすり替えていた気がした。

 

私と田中元会長は年齢も入信時期も近い。

昔は、「アベルがカラスは白い」と言えば、

 

「カラスは白い」と答えなければならなかった。

それが信仰だと教えられていた。

 

家庭連合の会長が「霊感商法はやっていない」と言うのに、

「私はやっていました」などと言う人がいることは考えられなかった。

 

別のユーチューブでは、日本の統一教会の歴史を見た。

初期の信者が古紙を集めて経済活動をしていた映像が流れていた。

 

ちゃんと記録に残していたんだと驚いた。

次に花売りが始まるのかと思ったら都合の悪いことはカットされていた。

 

777双の祝福家庭から街角で生花を売っていた話を聞かされていたから、

古紙の次は花売りが流れるものと思っていた。

 

生花から造花に変わり、ブンブンと言う昆虫が付いたものになり、

キーホルダーになり、次々と手を変え品を変えながら日本全国くまなく

ニセ募金活動をしてきた。

 

万物復帰でF(フラワー)をすることは統一教会の心情を受け継ぐ

ために欠かせないものだと言われていました。

 

田中会長はそんなことを百もご存じだと思う。

教会には高麗大理石壺も高麗人参茶もあり販売していました。

 

経済活動は信者が勝手にやったことではなく、教会に寝泊まりし、

教会から伝道部隊と経済部隊に分かれて出発していたのです。

 

「聖書の7つの例祭」

 

原理講論の摂理的同時性の講義を聞いて感動し、信仰を持った

という話をある兄弟から聞いたことがあります。

 

今、考えるとその兄弟は一度も聖書を読んだことがないと思います。

そんな時間は私たちには与えられていませんでした。

 

原理講論に書いていることや原理講師の言うことを確かめもせず、

ただ鵜呑みにして信じていただけだったのだと思います。

 

聖書には驚くような預言と、その成就が数多く書かれています

レビ記23章にはイスラエルの7つの例祭について書かれています。

 

これは歴史的意味と預言的意味があり、聖書のストーリーを知る

うえで重要な内容です。

 

春の祭りとして、「過越の祭り」、「種なしパンの祭り」、「初穂の祭り」

「7週の祭り」の4つがあります。

 

「過越の祭り」は、出エジプトの際、家の入口の2本の柱と鴨居に

子羊の血を塗ったイスラエルの家は神のさばきが過ぎ越したという

旧約聖書の歴史的事実に基づきます。

 

子羊の血を塗らなかったエジプトの民の長男はことごとく死んだので

パロ王様はイスラエルの民をついに奴隷から解放したのです。

 

この「過越の祭り」の時に、イエス・キリストは身代わりの子羊として

すべて民の罪の贖いとして血を流し、十字架にかかられたのです。

 

最後の晩餐はこの「過越の祭り」の食事だったのです。(マタイ26:

17~29、マルコ14:12~25、ルカ22:7~20)

 

「種なしパン」とはイースト菌の入っていないパンで、不純物のない、

キズのないということのたとえに使われています。

 

「種なしパンの祭り」の期間にイエス様は吟味され、「罪がない」ことが

裁判にかけられて調べられました。

 

「初穂の祭り」の日の朝、イエス様は復活されました。

キリスト教では「復活祭」とか「イースター」とか言います。

 

「7週の祭り」は、モーセがシナイ山で十戒を授かった日です。

初穂の祭りから50日後です。「五旬節」とも言います。

 

モアブ人ルツはボアズの妻となり、ダビデ王の曾祖母となります。

異邦人とユダヤ人の結びつきを象徴する祭りともいえます。

 

キリスト教では「ペンテコステの日」、「聖霊降誕日」とも言います。

聖霊が降りキリスト教会が誕生した日です。(使途の働き 2章)

 

このように旧約聖書の例祭と新約聖書は関連しています。

また秋の祭りは「ラッパの祭り」、「贖罪日」、「仮庵の祭り」の3つです

 

「ラッパの祭り」はユダヤ歴の新年を迎えるにあたり羊の角笛を鳴らします。

1年を振り返り悔い改めの始まりとされます。

 

「贖罪日」は断食と祈りによる罪の赦しを願う神聖な日とされています。

「仮庵の祭り」は、出エジプト後に荒野で仮庵に住んだことを覚えることと

秋の収穫を神に感謝する意味もあります。

 

新約聖書では「ラッパの祭り」は「携挙」、「贖罪日」は「大患難時代」、

「仮庵の祭り」は「千年王国」の再臨の預言と関連があると言われています。

 

聖書は調べれば調べるほど意味深いことがわかります。

家庭連合の信者にとっては、聞きなれない言葉ばかり並んだのでは

ないかと思います。

 

家庭連合では、旧約・新約聖書を教典の一つとしているのですから、

聖書に何が書かれているのかを真剣に調べてみてもいいのではない

でしょうか。

 

「人間の責任分担」

 

昨日は春の大潮だったので潮干狩りに行きました。

直前まで、行こうか行くまいかと迷っていました。

 

潮干狩りには体力がいる。

私の潮干狩りに対しての体力の限界は2時間までだ

とわかっている。

 

石ころの下にいるアサリを掘るのは疲れる。

5日間は体のあちこちが痛い。

 

干潮の時間が近づくと、今日がベストのタイミングだ

という思いがしてきて、頑張って出かけた。

 

潮位はわかっていたのに、予想外に潮が引いていた。

すでに多くの人が貝掘りを始めていた。

 

いつもならアサリの砂を吐かせる海水をまず汲んで置く

のだが、後回しにすることにした。

 

毎年、貝掘りをしている場所に行って掘り始めた。

予想外にアサリが大きい。

 

ザクザクとお宝が貯まっていくようで楽しい。

出遅れた分を取り戻そうとして頑張って掘り続けた。

 

1時間くらいたつと体力の限界が見え始めた。

潮が満ちてくるのに追いかけられるようになった。

 

1時間半ぐらいの間だったが、洗面器一杯のアサリが掘れ、

小さいものはリリースした。

 

私は潮干狩りをしている最中も信仰のことを考えていた。

家庭連合の信者は、解散命令によってどういった心境に

いるのだろうか。

 

本当に家庭連合の信仰は迫害によって結束力が強まり信仰が

強くなりえるのだろうか。

 

私が統一教会にいた時の食口の体験と、クリスチャンになって

からの体験を比較しながら考えてみた。

 

統一教会の信仰は人間側の責任分担にかかっている。

頑張りによる信仰、人間の努力による信仰だと思う。

 

だから迫害が来ると、風に揺れる葦のように心が揺れる。

一時的には頑張ることができるし、持ちこたえることもできる。

 

しかし、人間の体力にも心にも限界がある。

実際に、統一原理を聞いて教会に残る人は一握りにすぎない。

 

私は今、貝掘りをしているが、「明日も貝掘りをすることが

できるか」と言うとできない。体力が持たない。

 

キリスト教の信仰はどうだろうか。

救いは自分の努力の結果ではなく、イエス・キリストへの

信頼にかかっている。

 

一度信じたら、永遠に救われているという。

「本当にそうだろうか」と私は確かめつつ歩んでいる。

 

私はこれまで何度も人生の挫折を味わってきた。

その度に、私の内側から湧き出てくる聖霊の力によって

信仰を新たにされ続けて来た。

 

まるで坂道になるとターボエンジンが働いてグングン上る

ように内なる力が働いているのを実感してきた。

 

家庭連合になくて、イエス・キリストを信じる者にある

もののいちばんの違いは聖霊による力だと思う。

 

 

 

「私は、キリストのゆえに、弱さ、侮辱、苦悩、迫害、

 困難を喜んでいます。

 というのは、私が弱い時こそ、私は強いからです」

            第二コリント 12:10

 

 

「献金の受け皿」

 

家庭連合の信者から、「献金をしたいがどうしたらよいか」

という声に答えて新団体を立ち上げるらしい。

 

「そんなに献金したいのか」と驚いた。

その心理の背後には何があるのかと考えらされた。

 

「神様はお金を必用としていません」

これはちょっと考えれば誰でもわかることです。

 

聖書にはこう書かれています。

 

「義のいけにえを献げ、

 主により頼め。」

       詩篇 4:5

 

「まことに 私が供えても

 あなたはいけにえを喜ばれず

 全焼のささげ物を望まれません。

 

 神へのいけにえは 砕かれた霊。

 打たれ 砕かれた心。

 神よ あなたはそれを蔑まれません。」

       詩篇 51:16,17

 

私はキリスト教会で役員を何期もしていました。

役員は2年ごとに選挙で選ばれるようになっています。

 

実際に教会を運営していくためには必要経費がかかります。

役員は教会の会計を裏側から見るような立場になります。

 

役員会によって、献金の使い道も牧師の謝礼も決められます。

私の教会では十分の一献金を言いませんでした。

 

牧師は千円でも5百円でもいいですから毎月献げてくださいと

言っていました。

 

牧師は「信徒の誰がいくら献げているかを知らない。

関心がない」と言っていました。

 

それでも会計はいつも有り余るほど満たされていました。

むしろ十分の一などと言わない方がいいのではないかと思います。

 

私自身、十分の一は旧約の律法であり、新約には適用されないと

いう信仰を持っています。

 

会計は透明性がないといけません。

収入と支出のすべてを公表することは大切なことだと思います。

 

家庭連合のように、どこにどのように使われるかわからない

ようでは不正の温床になってしまいます。

 

家庭連合は今頃になって「献金改革に乗り出す」と言っていますが、

パフォーマンス倒れに終わらないようにしてください。

 

家庭連合では年間100億以上の収入があるそうですが、

それが誰によってどのように使われているのかが、

ほとんどの人がわかっていません。

 

中抜きや水増し請求などによって幹部の懐に入っていることだけは

事実のようです。

 

献金の問題をクリアすれば少しまともな団体になれる気がしますが、

内部で権力争いをしているようでは困難ではないでしょうか。

 

「サタン世界」

 

家庭連合では自分たちに都合の悪い災難は

サタンから来るものだと思っています。

 

解散命令はサタンによって引き起こされたものと

とらえているのではないでしょうか。

 

家庭連合では、サタンは神と対立する存在として教えています。

自分たちは「神側」、この世は「サタン側」と区別しています。

 

自分たちにふりかかる困難や迫害を「サタンの迫害」と考えています。

先日、ニュースで信者がこう発言していました。

 

「こんなサタン世界じゃあね」

「やはりサタンは強いんだな」

 

おそらく熱心な信者は同感していると思います。

ニュースで取りあげられたのは、世間との感覚のズレだと思います。

 

「サタンのものを奪って、神側に復帰するのがなぜ悪い!」

「何で神のものをサタンに返さなきゃあならないのよ!」

 

「解散命令」に国民の8割が納得していますが、

家庭連合の信者は、なぜ解散しなければならないのか、

全く理解できていません。

 

聖書ではサタンをどうとらえているのでしょうか?

サタンは神によって一時的に存在と活動を許されている者であり、

最終的には神が勝利し、滅ぼされる運命にあります。

 

キリストの十字架と復活によってサタンはすでに敗北しており、

イエス・キリストを信じる者に対しての支配権はありません。

 

ヨブ記では、サタンが人間の信仰を試す者として登場します。

サタンの行動は神の許可の範囲内で行われます。

 

神のゆるしなしにサタンが勝手に行動することはできませんが、

サタンは今も人々を試みる自由があります。

 

マタイの福音書4章1節には、「聖霊に導かれて」

「悪魔の試みを受けるために」

イエスが荒野に上って行かれた、と書かれています。

 

試練と取るか、災難と取るかは人がどうとらえるかの違いです。

試練には信仰者を成長させ、人格的に成熟させる重要な目的が

あります。

 

試練は人が未熟な状態から成長し、豊かな人格を形成する

ための重要な機会であると広く認識されています。

 

 

「反省だけなら」

 

家庭連合に高裁の解散命令が下されました。

この結果は「反省はしているが悔い改めていない」

と高裁が判断したからだと私は思います。

 

「悔い改め」とは、心の方向転換です。

過去の過ちを反省し、考え方や行動を改めて、

再び繰り返さないことを指します。

 

家庭連合はコンプライアンス宣言を出しましたが、

宗教団体がそんな宣言を出さないといけないこと自体が

アウトです。

 

良識ある人たちは、そんなことをやっていたのかと

驚くような内容ばかりです。

 

キリスト教においては「悔い改め」は単なる後悔や

反省とは違います。

 

聖書の原語「メタノイア」の意味は、「間違った概念や

偏見を捨てて真理の認識に目覚める」、「別な心を持つ」、

「心を変える」ことです。

 

自分の過ちを認め、罪から離れ、間違った道から方向転換し、

神に心と思いを向けて赦しを求める心の変化を意味します。

 

イエス・キリストは罪びと(私)のために身代わりとなって

十字架についてくださいました。

 

十字架の上で、「彼らをゆるして下さい。

彼らは何をしているのかわからないのです」

と祈られました。

 

私たちが悔い改める気持ちになれるのは、誰かに愛され、

ゆるされていると感じるときです。

 

イエス様の無条件の愛に触れて、はじめて自分の過ちを

悔い改め、新しい気持ちで歩むことができます。

 

自分が正しいというこだわりが無くなり、

謙虚になり同じ失敗を繰り返さなくなります。

 

悔い改めは、やり直しや神に近づくチャンスです。

悔い改めは生涯にわたる継続的な成長の過程なのです。

 

「接ぎ木理論」

 

私は以前に家庭菜園をしていたことがあります。

限られた場所だったので接ぎ木苗を選んでいました。

 

台木は病気や土壌に強い性質を持っています。

接ぎ木苗は品種改良され、味が良い、収穫が多いなどの

性質を持っています。

 

真の父母論の接ぎ木理論はどうでしょうか。

真の父母は、「神の側に立つ本来の木、神の血統の根」とされます。

 

祝福結婚や聖酒式を通して、サタン側の木から切り離され、

真の父母の木に接ぎ木されると言っています。

 

これは甘柿の台木に渋柿を接ぎ木しているような理論です。

実がなるのは甘柿ではなく、渋柿です。

 

しかし、祝福二世は原罪がないと言っています。

なんかおかしいのではないでしょうか。

 

そもそも神様には血統などというものはありませんから、

血統転換などというのは証明のできない、ただの空論です。

 

真の御父母様が無原罪であることも証明することはできません。

聖書にはこのように書かれています。

 

 

「もし自分に罪がないというなら、

 私たちは自分自身を欺いており、

 私たちのうちに真理はありません。

 

 もし私たちが自分の罪を告白するなら、

 神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、

 私たちをすべての不義からきよめてくださいます。

 

 もし罪を犯したことがないと言うなら、

 私たちは神を偽り者とすることになり、

 私たちのうちに神のことばはありません。」

        第1ヨハネ 1:8~10

 

「天の父母様」

 

天の父母様と聖書の神(ヤハウェ)は同一であるかを

考えてみたいと思います。

 

統一教会の信者にとっては、神羅万象の第一原因=神の二性性相=

父母なる神=天の父母様、真の父母様とつながっていると思います。

 

統一原理の二性性相の講義を聞いて、神様の存在を信じるように

なった人も多いのではないかと思います。

 

しかし、二性性相は科学的ではありません。

男と女、雄と雌に分類できるのは哺乳類くらいです。

 

爬虫類、両生類、魚類、昆虫などは、性転換をしたり、

単為生殖をするものなどが数多くみられます。

 

単為生殖や無性生殖などの例外があるのであれば、

原理の説く二性性相は真理であるとは認められません。

 

二性性相が否定されれば、天の父母様も真の父母様という

概念も成り立ちません。

 

天の父母様という神自体が、両性具有の被造物のように

しか思えません。

天の父母様は人間の思考が作り上げた神であると言えます。

 

聖書には、「木は実によってわかる」と書いてあります。

家庭連合は理想の家庭を目指していながら、第一祝福の

個性完成が先ずできていません。

 

真の家庭は親子で裁判を起こし、韓総裁は先の裁判に負け

てしまいました。

 

真の子女たちはそれぞれ分派を起こしたり、脱会したり

しています。

 

家庭連合で離婚率の最も高いのが真の家庭です。

韓鶴子総裁も様々な罪で現在は被告人となっています。

 

人類が一つの家族となって、理想の世界を建設するという

ビジョンに真の家庭自体が逆行していると言わざるを得ません。

 

 

キリスト教では、神は性別を超越した存在であり、その性質や

働きを「父」という名称で比喩的に表現しています。

 

創造主である神が持つ至高で強力な権威、父祖、守護者の源で

あることを示しています。

 

「体験できる神」

 

イエス・キリストは見える神であり、

聖霊は、体験できる神です。

 

イエス・キリストは神様がどのような方であるかを

人間に現してくださいました。

 

それによって、私たちは神が愛であることを知りました。

聖書にはイエス様の言葉や行ないが多く書かれています。

 

私たちは聖霊の働きによって、イエス様をより詳しく知ることができ、

共に歩んでくださる神を実感することができます。

 

イエス・キリストを救い主と信じ、私の主として心の中に

受け入れた時から聖霊が内住してくださいます。

 

ある人はこれを聖霊のバプテスマだと言います。

またある人たちは、異言を語ってはじめて聖霊のバプテスマを

受けたのだと主張します。

 

またある人は、「異言は関係ない」

「聖霊の満たしのはじめての体験が聖霊のバプテスマだ」と言います。

 

私はどう思っているのかというと、「聖霊のバプテスマ体験」には

異言を伴うこともあれば、伴わないこともあるという立場です。

 

事実、私は異言をしゃべることができませんが、

「聖霊のバプテスマ体験」をしています。

 

異言を聞いた時、「これは異言だ」と私が感ずるということは、

異言だと思います。

 

ただ私は異言の必要性を感じていません。

また求めてもいません。

 

異言は第一コリント人への手紙12章8,9節に書かれている

9つの聖霊の賜物の一つに過ぎないというのが私の考えです。

 

本題に戻ります。

聖霊の働きをまず実感するのは、悔い改めた時だと思います。

 

神様の前に罪を告白し、方向転換をすると、罪が許されたという

平安と喜びに満たされます。

 

神様に心から感謝や賛美をささげると、天国にいるような気持になります。

聖書を読むと神の霊に触れることができ、また啓示が与えられたりします。

 

次に「第二の転機」が訪れます。

それが「聖霊のバプテスマ体験」です。

 

私が強調したいのはこの「聖霊に満たされる」ことの「体験」です。

私の自我が死んで新しく生まれ変わったという「信仰の体験」です。

 

私の心が別人の心ように変わり、ねたみや恨み、嫉妬がなくなる。

キリストの愛が溢れ出すという歓喜の絶頂の「体験」です。

この「聖め」に至るまでに、普通は何年もかかると言われています。

 

しかし、統一教会の信者であった人たちは一瞬でこの障壁を飛び越え、

最短の道を歩むことができる可能性をもっています。

 

それは罪と戦ってきたという経験があるからです。

長い間の苦労が決して無駄ではなかったことがわかります。

 

私はそう信じています。真理を求めて続けて来た統一教会の信者には

大きな希望をもっています。

 

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「あなたがたに新しい心を与え、

 あなたがたのうちに新しい霊を与える。

 

 わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、

 あなたがたに肉に心を与える。

 

 わたしの霊をあなたがたのうちに授けて、

 わたしの掟に従って歩み、

 わたしの定めを守り行うようにする。」

         エゼキエル 36:26,27

 

「聖霊の働き」

 

統一教会の信者とキリスト者の大きな違いの一つに

聖霊の理解と信仰があると思います。

 

「もし、神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、

 あなたがたは肉のうちにではなく御霊のうちにいるのです。

 

 もし、キリストの御霊を持っていない人がいれば、

 その人はキリストのものではありません。

            ローマ 8:9

 

「神はまた、私たちに証印を押し、保証として御霊を

 私たちの心に与えてくださいました。

            第二コリント 1:22

 

「聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です」

            エペソ 1:14

 

家庭連合で聖霊について語られることはほとんどありません。

語られるときは、いつも間違ったことを教えています。

 

聖書には数多くの聖霊に関する記述があります。

私の助け主、慰め主、導き手、弁護者また力となってくださる

人格的な聖霊を知ることは重要です。

 

私たちの努力だけではキリストのように生きようとする

ことは不可能です。

 

私たちのうちに住んでおられる聖霊に私たちの心や

思いを支配していただければ可能になるのです。

 

私たちはキリストを信じる(信頼する)だけで、

よりキリストのような人に変えられるのです。

 

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「御霊の思いはいのちと平安です」

            ローマ 8:6

 

「神の御霊に導かれる人はみな、神の子です。

 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を

 受けたのではなく、子とする霊を受けたのです。」

            ローマ 8:14

 

「主は御霊です。そして、主の御霊がおられるところには

 自由があります。」

            第二コリント 3:17