映画の始まりとともに、凄まじいばかりの 「学級崩壊の実情」 を (あえてそういう言葉を使えば) 「堪能」 させてもらった。この学級崩壊の姿は戯画化なのか、つまり大袈裟に描いているのか、それとも 「そうそう、ほんと、こういう学校あるよね」 なのか、子供のいない私には現代の中学生の 「先生に対する礼を失する態度」 の実態を知る由もないが、少なくとも昭和30年代から40年代にかけて少年時代を過ごした私には信じがたい光景だと言えるだろう。友人の教師が公の場で口にできないことを代わりに言うとすれば、この光景の淵源は先生が教え子にビンタやゲンコツができなくなったことに由来するだろう。
戦争が終わり自由で民主的な世の中になったとはいえ、いみじくも教師が教壇でしゃべっているときは、その話がいかに退屈であっても、私たち生徒は黙って先生の話を聴くだけの 「常識」 は持っていた。授業中、生徒同士で勝手にしゃべりまわる馬鹿はいなかったし、教室を徘徊するような馬鹿、急に教室を飛び出していくような馬鹿、そして学校を長期で休む不登校生徒などひとりもいなかった。学校とは行って当たり前、自動的に登校する場所であり、いろいろ嫌なことがあっても、とにかく行けば友誼を結ぶ何人かの友だちが必ずいたし、このようにすべての学友が 「敵になる」 という状況が信じられぬ。
さらに、この物語で私が想定することが不可能だと思うのは、殺人を犯してみたくなる子供の存在だ。殺人を犯す? そりゃ憎いやつをぶっとばしたくなることも多々あったろう、人を殺したくなることも。しかし実際に人を殺してしまった少年、そんな馬鹿者を想定することができない。あの頃は、勉強のできる子は 「一直線」 で 「工学博士」 になるのが夢だったし。高いIQを持つ子が 「半周捩れて」、それを自己の欲望成就(この場合、殺人)のために使おうなんて考える者は、いるわけがなかった。知性の発現と使い方はそれを領導する者がいなければ―その 「師匠」 の自己発見も含めて―順当に開花することはない。
80年代から小・中学校で突如発生したいじめ。今はいじめが大学生にまで浸潤しているらしい。今の大学には父母参観日や父母同伴の面接相談会というものがあるらしい。なぜ、大学生活に親がコミットするのか、また当人が親の関与を許すのか。みっともない。トイレの個室で昼食を摂る学生が多いと聞く。そのあり得ない姿は、学食で一人で食事をしていると学友にひとりぼっちなやつだと見られるので、その 「いじめの視線」 から逃れる為に、一人でいることを誰にも見られない所で一人でいるらしい。「孤独であること」 の実存を噛みしめることが人格形成上必要不可欠であった大学生活は、今や遠くに去りぬ。
さて、以上のような感想を―「もう終わったな」 感を―私に抱かせたのは、この監督の演出が抜群に優れたものであり、ここに出演している子供たちが、監督の要求によく応えて 「現在の得体のしれない中学生の生活と心情」 を醸し出すことに(素でやっているように見えることに)成功していることの証左だと思う。
(了)




