メリー・マグダレン
Mary Magdalene
愛と欲情
LOVE & LUST
13 June 2013 - 7:04pm
パメラ・クレーバ経由
Channeler: Pamela Kribbe
親愛なる男性と女性の皆さん、わたしは皆さんすべてに敬意を表します。
わたしは今ここ、皆さんの只中に、ひとつの魂として、ひとりの女性として、ひとりの姉妹として存在します。
わたしは皆さんとひとつであり、そしてかつて人間として存在しました。
わたしは内部から、皆さんが今抱えているすべての感覚を、認識しています。
今、わたしがこの立場から地球上の人生に目を向けながら、わたしのこころに最も印象として残るものは、この世界の人生の尊さです。
人間として存在することの脆弱性、そして苦痛や数々の傷は、皆さんが地球上にいる間に持続するものであり、そして逆に言えば、それは皆さんの信じ難い勇気、皆さんの光と愛に対する一貫した欲求、皆さんの忍耐力と歓びに満ちた数々の勝利です。
今わたしにとって、それがこの世界の人生を特徴づけるものです。
わたしは皆さんを、皆さん自身でその経験と冒険を選択する勇敢な天使達として理解します。
皆さんがこの世界の人生に降下する時、皆さんはほとんどいつも、地球上の人間社会がもつ振動よりもさらに高い水準で振動するひとつの領域から現れます。
皆さんの奥深くのどこかの場所であり、皆さんは“はい”、と言い、この地球のエネルギーと遭遇します。
皆さんは、“わたしはこれを引き受けることにする”、と決断します。
地球上の人生との舞踏、それは部分的には、闇、怖れ、抵抗、孤独、そして途方に暮れた感覚との舞踏です。
皆さんはその危険を引き受け、そしてわたしは今、その理由を理解することができます。
そのすべての苦悩、努力、重苦しさにもかかわらず、皆さんが物質、姿の中に具体化される時のように、これほど深く、これほど豊かで、これほど強烈な場所は他に存在しません。
しかしそれでも、皆さんは頻繁に姿形から皆さん自身を断ち切ってそれを克服し、さらに壮大なもの、さらに高いものと融合することを望みます。
皆さんは、地球の人生の数々の制約から解き放たれることを模索します。
しかしわたしは、皆さんのありのままの姿、地球上の人間としての皆さんの美しさを、確認します。
男性、女性、子供、または大人としての皆さんです。
皆さんが持つその具体的な姿の中で、皆さんはその創造の光を発します。
数多くの霊的な伝統が、今まで人間の姿の超克に焦点を当て続けてきました。
“身体は何の価値もなく、真実の使者ではない。数々の情緒は疑わしく、問題にならない情熱だ。性的な特徴は誘惑の起源であり、その通り、有害なものでさえある。”
地球上の存在全体が、実際にこの種の考えによってその神聖さを弱められ、奪われました。
そしてそれは、ひとつの支配の欲望から発生したものです。
地球上には、生命を支配することを望んだ権力が存在してきました。
そして人々やその人生に対する支配を行使しようとして、皆さんはその精神を手段として、皆さんが広め、皆さんが洗脳するために利用する発想や印象を通して、その最高のものを達成します。
精神の支配は、物質的な力による操作よりも遥かにあらゆるものを網羅するものです。
皆さんは人々とその魂の深いところで接触して、皆さんが人々のありのままの姿について、そして人々の価値または無価値、そして人々の自然な衝動の善いところまたは“悪いところ”(邪悪)について、その特定の印象を人々の前に提示する時、その人々を変えることができます。
皆さんは、そのようにとても深く影響を与えられてきました。
そしてその条件付けのせいで、皆さんは地球上の人生を色々な意味で価値がないものとして理解し始めました。
これが今まで皆さんに教えられてきたことであり、そして皆さんは無意識に依然としてこうした印象を身に着けています。
それは依然として、皆さんの皆さん自身についての考え方、皆さんの身体、皆さんの欲情、欲求、情緒、そして皆さんの情熱についての感じ方に、影響を及ぼします。
最近では、物事は緩み始めています。
古い数々の発想は、今にも崩壊しようとしています。
この理由は、より一層多くの人々が目を覚し、自分自身に忠実になる欲求を感じ続けているからです。
この新しいエネルギーの波は、人々を個人的に、ひとりずつ、目覚めさせています。
そしてその流れが高まるにつれて、それはひとつの全体としての社会に影響を与えることになるでしょう。
それは言ってみれば、皆さんが地球の一部であるように、地球に戻る、皆さんの自然な自己に戻る、ひとつの運動です。
皆さんの身体は、地球の一部です。
皆さんの性的な特徴、皆さんの本能、皆さんの身体の言葉は、地球の一部です。
その地球上の特質を、誰も無制限に否定することはできません。
それは、創造のひとつの発展し得る部分です。
そしてより低い状態とより高い状態の間で、物事はその結び付きの中でどのように皆さんを評価するのでしょうか?
皆さんは伝統的に、霊性は“さらに高い部分”と関係している、と伝えられました。
そしてまた頻繁に、皆さんはより高い何かに仕えている、皆さん自身を皆さんの隣人や皆さんの地域社会へ貢献する立場に置く、といったようなひとつの理想への服従と関連している、と伝えられました。
そしてより低い部分は、自我に方向付けられたもの、皆さん自身に焦点を合わせること、皆さん自身の欲求を追求することと、同一視されました。
もしも皆さんが皆さん自身の傾向性に従うなら、皆さんは“脱線”し、その自我に方向付けられた状態は、罪と裁きを負わされました。
しかしその一方で、皆さんは今、性的な特徴に関する考えのひとつの変化の只中にいます。
皆さんは、皆さんという存在全体からの変化の要求を感じます。
そして皆さんは、地球上の意識の目覚めを支援するために、今ここに現れています。
皆さんが皆さんの現在の生涯に飛び降りる前に、皆さんは、現時点で起っている根本的な移行の見通しを感じました。
皆さんの魂は、この魅力を感じ、そして皆さんは、“わたしはこの一部になりたい、だからこれからもう一度行く”、と決意しました。
その古い意識の支配は、言ってみれば、既に限界まで引き伸ばされていました。
物事は今、異なるものになる必要があります。
継続する人類の持続的な存続、自然、そして地球との調和でさえ、それに左右されます。
目覚めと変容の過程は、皆さんが皆さん自身の中のいわゆるより低い部分と向き合って、それに完全に異なる価値を指定することを求めます。
そしてそのより低い部分と向き合うことは、何を意味するのでしょうか?
皆さんの身体、皆さんのお腹、皆さんの数々の感覚との結び付きを持つこと、皆さん自身の獣性を認めることです。
人間として、皆さんは今までこれほど長い間、皆さんの精神の中で生きてきたため、皆さんは、わたしが皆さんの“動物的行動”と呼ぼうとするものとの結び付きを失ってきました。
皆さんの動物の部分、本能的な部分です。
その言葉は、瞬時に特定の連想を喚起しますが、しかし“動物的行動”とは本当は何なのでしょうか?
動物達は、人々が行うような精神的なエネルギーを持ち合わせていません。
動物達は、本能で生きていています。
しかしその本能は遥かに洗練されていて、人々が一般的に考えるよりも遥かに精緻なひとつの手段です。本能は、皆さんのお腹の中にあります。
本能は、皆さんが何かを感じる状態について、皆さんの感覚を直接支援します。
それが良く感じるかどうか、あるいはそれが酷く不快に感じるかどうか、それが皆さんに望ましい物事をもたらすかどうか、あるいはそれが消え失せることを皆さんが好むかどうか、といったことです。
しかし人々が行うことが難しいことは、人々の本能に頼ることであり、そして時に人々は、もはやそれを感じることさえできません。
皆さんは今までそれほど強力に皆さんの頭に基づいて生きてきたため、皆さんは皆さんの本能との結び付きを、皆さんの獣性の叡智との結び付きを、失っていました。
皆さん自身の動物的な行動、問題を抱えた皆さんの内部の動物との関係は、性的な特徴の領域の中で、それ自体を明確に示します。
人々が別の人と親密で性的なひとつの関係を引き受ける時、何か起るでしょうか?
性的な特徴が存在しない友情の中で、皆さんはある程度、本能の領域、獣性の外側に留まることができます。
皆さんは頭に基づいて結び付くことができ、そしてその結び付きが深まる時、またこころから結び付くこともできます。
しかし一度性的特徴の領域がふたりの間に現れると、別の数々の力が登場します。
物質的な水準上では、本能的な引き付ける力、正反対の間の引き付ける力が生じますが、それは頭とはほとんど関係なく、また必ずしもこころと関係あるとは限らないものです。
人々の性的な情熱の力は、頻繁に人々を脅えさせ、そして人々は、2つの方法で反応する可能性があります。
その引き付ける力は、理性を失う、皆さん自身を失う、といったひとつの怖れを植え付けることができるため、皆さんはそれを遮断し、身を引きます。
あるいは、皆さんはその引き付ける力の流れと一緒に進みますが、しかし皆さんは欲情の感覚に意識を集中したままです。
その欲情の感覚は、皆さんがその身体の中に持つものであり、そして皆さんは、性的特徴が皆さんを引き入れることができる、その深遠な親密さを受け入れません。
ふたりの人々が親密になり、獣性の水準とそのこころの水準の両方で結び付きを経験することは、ほとんどありません。
これは、かなり残念なことです。
何故なら、性的な特徴は、事実通り霊的な愛と人間の愛の深遠な混合への入り口になる可能性があるからです。
男性と女性が性的な特徴の聖なる癒しの側面を経験することがこれほど困難なのは、何故でしょうか?
物質的な本能、性的な本能のことになると、皆さんはすべての種類の禁忌と禁止と一緒に成長してきました。
それは既にここ数十年の間に変わり始めていますが、しかし依然としてその領域の中に、本当の自由はありません。
皆さんは、皆さんが経験する欲情の感覚で、こころが和むでしょうか?
皆さんは欲情を楽しむことができますか?
あるいは、それは実際に、肉体的な性を経験するか(性を疼く掻き傷にする)、あるいは精神力を通して皆さん自身を性から遮断することのどちらかによって皆さんが取り除くことを望むものを、妨害する何かでしょうか?
人々が陽気で歓びに溢れて人々自身の性的な欲求を受け入れることは、依然として困難なままです。
起ることは、人々が性に関する断定的判断または怖れに行き詰るか、観念的になるかのどちらかです。
あるいは、人々は自分達の欲情を罪悪感、秘密主義の方法の中に沈めて、性的な特徴を闇の中で生じるものにします。
両方の事例の中で、こころと獣性の間、より高いものとより低いものの間、欲情と愛の間の結び付きは、存在することができません。その動物の部分を尊重することができない状態が、また皆さんを愛に溢れる霊的な部分から遮断します。
皆さんはどのようにすれば、分離されたものと再び結び付き、皆さん自身の動物的で性的な特質をさらに自由に感じることができるのでしょうか?
何よりもまず、身体を高く評価し、欲情と性的な特徴についての古い断定的判断を手放してください。
欲情は、身体によって生み出されたひとつの自然なエネルギーの流れです。
それは無邪気で、本質的に危険なものでも破壊的なものでもありません。
歓びと楽しみでそれを迎え入れてみてください。
皆さんが欲情を感じる時はいつも、皆さんの身体の中で疼いている数々の感覚を楽しみ、それに影響を与える必要性を持たずに、それをそれ自体の中で楽しめるものとして理解してください。
底流として存在する皆さんの身体に対するひとつの基本的な官能性があり、それは、食べること、飲むこと、触れること、踊ること、入浴すること、あるいは太陽の中を散歩することのような、皆さんが異なる種類の身体の感覚を楽しむことができるようにします。
他の誰かと性を経験するといった性的な特徴は、ひとりの人間としての皆さんに属するこの基本的な官能性の、ひとつの表現です。
それを恥ずかしがらずに、それを楽しんでください。
皆さんの官能的な特質は、貴重でとても心地良いものです。
もしも皆さんが皆さん自身の官能的な特質を受け入れて、開かれた精神で欲情という官能性を迎え入れるなら、皆さんはおそらくそれを楽しむことになるでしょう!
皆さんはそれを別の個人と共有することができ、そしてもしもふたりの皆さんの間により深い結び付きがあるなら、皆さんは気付くことになるでしょう。
その欲情の流れが、皆さんのこころがお互いにこころを開き、物質的な水準だけではなく、情緒的な水準や霊的な水準の上でさえも融合することを許しながら、実際に皆さんにさらに近い結び付きをもたらすことになるでしょう。
欲情は、愛と純粋な親密性に通じることができます。
わたしが強調したいことは、欲情はふたりの人々の間の聖なる愛や穏やかな愛の対極ではない、ということです。
欲情と愛は、両立することができ、そしてもしも皆さんが恥ずかしさまたは遠慮を持たずにそれに身を委ねるなら、欲情は皆さんが実際に深いお互いに親密な状態に到達する支援をすることができます。
皆さんは、もしも皆さんがそれを自由にするなら、もしも皆さんが皆さんの情緒または情熱の波に乗るなら、物事は手に負えなくなるという、この深く根付いている概念を持ちます。
しかしそれはしばしば、単なる逆の話しに過ぎません。
もしも皆さんが性的な情熱のようなものを抑制する、あるいは制御しようとするなら、皆さんは自然の力に反する働きをしていることになります。
自然の力はこれほど強力なため、皆さんは何れにしても負けることになるでしょう。
性的な情熱を抑制することによって、皆さんは歪められて倒錯さえしている性的な特徴を生じさせます。
性的な特徴の屈辱的な数々の姿は、いつも人間性に関する病的で硬直した断定的判断と並んで進みます。
宗教的な熱烈さと性的な倒錯が頻繁に手を取り合って進むのは、これがその理由です。
皆さん自身の性的な特質に安心感を覚えることは、別の個人との親密な結び付きに向かう最初の段階です。
皆さんは、皆さん自身の身体と、その身体が皆さんに提示する経験の種類に感謝します。
言うまでもなく、別の個人と親密に結び付くことは、これ以上のことが必要になります。
皆さんは、異なる背景と歴史によって形作られ、成形された別の存在に対応しています。
両方の皆さんが安心を感じるためには、皆さんのこころがお互いに打ち解ける必要があります。
両方の皆さんがお互いに身を委ねることに対して、信頼することに対して皆さん自身を保護するために、防御を築くことになるでしょう。
皆さんはすべて、古い数々の情緒の傷を持ち越しています。
ひとりひとりの皆さんがそういった防御の姿勢を持っていて、そして皆さんの中のその防御の姿勢を認めることが重要です。
情緒的な親密さは、皆さんが積極的に皆さん自身の怖れを直視する時、そして皆さんが事実通りお互いの痛みを積極的に理解する時に生まれます。
皆さんが意欲的にそれを行う時、皆さんのこころの中には歓びがあり、そして皆さんの間には癒しの流れが存在することになるでしょう。
皆さんは身体の水準と魂の水準の両方で、より密接な状態になるでしょう。
この一体となる繊細な過程は、愛し合うことの技術が目的にするものです。
それには、献身、忍耐、誠実さ、そして勇気が含まれます。
それは、情熱的なものと高度に霊的なものの両方です。
わたしが最初に地球上の人間の経験の尊さについて話した時、わたしはまた、愛し合うことの技術について言及していました。
ひとつの魂として、皆さんはひとつの姿に縛り付けられることはありません。
皆さんは、その本質において、ひとりの男性、またはひとりの女性、子供または成人、病気または健康でもありません。
こうしたものはすべて、一時的な発現です。それにもかかわらず、そういった非永続的な数々の姿が、潜在的に絶妙で大いに霊的な、経験の多様性を提示します。
ひとりの女性またはひとりの男性になることは、皆さんに人間の愛し合う経験をして、してそれを物質的に、情緒的に、そして霊的に楽しむ可能性を提供します。
人間の社会の中で、性的な特徴については多くの混乱があります。
男性と女性の出会いの中で、聖なる交流、人間として両方の皆さんを超越するひとつの全体性に向かう、皆さんの気持ちを高めるひとつの空間に向けた、ひとつの始まりが存在することが可能です。
皆さんはそれを魂、あるいは神と呼ぶことができますが、しかし驚くべきことは、この聖なる経験がまったく欲情のように見えないことです。
しかし欲情は、お互いに物質的に探索しながら、聖なる経験に向かう入り口を形成します。
皆さんのこの世界の特質は、卑しいものでも汚いものでもありません。
性的な特徴と霊性は、相方同士になることができます。
わたしが皆さんに皆さん自身の情熱、皆さんの身体の欲求、皆さんの性的な特徴に安心感を覚えることを勧めるのは、これがその理由です。
皆さん自身の足並みで、皆さん自身のリズムで、それを探索してください。
実際に、わたしは今、皆さんの自覚的意識が皆さんの腹部に降りることを許すように、皆さんに勧めたいと思います。
皆さんの自覚的意識はひとつの集中力以外の何ものでもなく、そのため今、その集中力を皆さんの腹部に向けてください。
その領域が感じる姿、皆さん性的な器官、尾?骨(根)のチャクラ、皆さんの骨盤の領域にさらに深く沈む姿を、経験してください。
客観的で中立的な皆さんの配慮と伴に、皆さんの身体のその領域に向かって降りて行ってください。
ここは皆さんの身体の素晴らしい部分であり、そしてここで、生命力の源を感知してください。皆さんは、ひとつの色彩を確認または感じるかもしれません。
皆さんが生命力、官能性、そして肉体的な適応力の流れを許し、皆さんの両足を通して地球との結び付きを作ることができる姿を経験してください。
この身体の流れを経験することがどれほど有益で自然なことであるか、それを感じてください。
できることなら、皆さんの身体が今何かを必要としているかどうか、皆さんの身体が経験したいすべてを経験することを皆さんが許しているかどうかを、観察してください。
おそらく、皆さんの身体が皆さんの日々の生活の中でより頻繁に経験したいことがあるのではないでしょうか?
それはひとつの単純なことで、皆さんがその頭で回避するものかもしれません。
そういった要求を深刻に受け止めてください。
身体は皆さんを故郷に連れて行くことを望みます。
身体は、魂と正反対ではなく、それは物質的な姿の中の、魂です。
皆さんを皆さんの魂から追い出すのは、皆さんの身体というよりも、むしろ皆さんの頭です。
皆さんの身体と仲直りをして、その数多くの贈り物を楽しんでください。
[コピーライト] Pamela Kribbe
www.jeshua.net
http://lightworkers.org/channeling/183705/mary-magdalene-love-lust-pamela-kribbe
翻訳★森のくまさま...ありがとうございます。
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●創造イメージをするときの面白い題材です。
・性欲・・・全ての現実の諸元になっている所じゃないかとさえ思うこともあります。
どういう世界なら折り合いが付くのでしょうね。
・獣性について私が言葉にするときは、その凶暴性についての不要論を述べている時ですが、必要不要という事について、性欲については否定はしてませんし、解決のイメージはあっても、真実や答えも見つかりませんので、こういうメッセージを待っていました。
真実かどうかの判定は、今後の気づきの展開に期待です。
真実かどうかの判定は、今後の気づきの展開に期待です。
・性欲について、スルーするメッセージの主って、それこそ本物なのかどうか?とか、または、チャネラーのエゴ(恥に思う心?)が解除されていないのだろうかとか、チャネラーとそのメッセンジャーの真実性のレベルを落としているような気がしていました。
・獣性、神性を考える上で、一番といってもいいくらいに思える大事な所を無視しているのですから、サニワする上では、非常に注意している所です。
・それとも、スルーされるのは、それさえも、選択という事なんでしょうかね。秘め事だけに、そこだけ秘密なんだろうかとか(笑)そんな事ありえます?それとも、チャネラーの精神に影響を与えすぎるんだろうか?とか(笑)
ま、そこは、時期とタイミングがあるんだろうと・・・いつだよwとか、思いますが、まあ、それくらいにしておいて。
・そんな事よりも重要だと思うことは、この話は、既存の宗教や、偉人の教え、現状の在り方についても、殆どを否定するくらいに、ズバッと斬り込んでいます。そして、創造の自由性を確保する話題でもあります。
・結局、性欲は、神から与えられた♂♀の関係から生じる様々な問題の要所の大きな一つなので、こうであるべき!的では、創造性が限定され、根本から解決できるような世界観(ファンタジー)は沸いてこないと思います。
・もし、それを考えることすら、罪を感じたり、恥じらいを感じてしまったり、神や天使、または何かを裏切ってしまう気がする事があるなら、それこそ、どこかでマインドコントロールされているのだと思います。
だって、良いとか悪いとかありませんのでしょ?そう、教えてこられませんでしたか?
それに、そのような事を考えたからといって、接続性が失われた事もありません。むしろ、気づきのために、いろいろ、為になりそうな情報が舞い込んできているだけです。
それに、そのような事を考えたからといって、接続性が失われた事もありません。むしろ、気づきのために、いろいろ、為になりそうな情報が舞い込んできているだけです。
●宗教や何とか道的な禁欲
・簡単に性が無くなるか感じなくなれば(禁欲すれば)いいんだよ。なんていう単純な考えは、宗教や道を本当に理解していない人による、意味のとり違いのような気がします。
・禁欲について思う所は、「欲」の引き出し方や、欲の有り難味や、神に感謝する事を理解をする事が真実なのじゃないかと思いますし、神や愛の理解に当たって、獣性の凶暴性からの脱却し神性を高め、良い欲(真実の喜び)を引き寄せる法則と関連があるようにも思います。
・毒を出し、神のようになる為といえば、そうなのかもですが。突然、禁欲だけして愛の理解が生まれるとはとても思えません。神の愛の理解も無いまま、欲が生まれる事で、偽善やらエゴの増幅やら、憎悪を生んでしまうのでしょうか。
・禁欲して超能力を得られたり神のようになれるのならば、そこら中の宗教や道の方々禁欲していたのでしょうから、それに、今でも、どこかの国では断食もやっているのだから、今頃、世界は、平和そのもののはずです。
・もしかすると、調べれば、宗教や何とか道には、禁欲を始めるタイミングとかあるかもしれません。
・ということで、核心に迫っている気がして楽しく読ませていただきました。
※単にHな事だけをイメージするという話ではなく、宗教的なやり方(禁欲とか)のように、神から与えられた体とその活動を否定しなくとも、よりよい在り方だってあるのではないか?あったのではないか?さらには、様々な問題についての疑問と解決案について、肯定的に創造する方法についての話でした。
・無欲については、執着から離れ、神と一体(神に向かう姿勢)になることではないかと。
・無欲については、執着から離れ、神と一体(神に向かう姿勢)になることではないかと。
・欲は、命、生命体でるための、身の維持、創造力の源ではないかと。
それらの真実を理解するうちに・・・
・我と欲が祭り合って、スーパーエゴ(神欲)となるのではないかと。
ひふみ神示 第20巻 梅の巻
第二十一帖
身欲信心スコタン許り、天津日嗣の御位は幾千代かけて変らんぞ、日の大神様、月の大神様、地(くに)の大神様、御血統(おんちすじ)弥栄々々ぞ。日本の人民アフンとするぞ、皆それぞれのゆかりの集団(まどゐ)に入れよ、神示ひふみとなるぞ、天明は画家となれ、絵描いて皆にやれよ、弥栄となるぞ、やさかいやさか。今度はキリスト教も仏教も何も彼も生かさなならんのぞ。早くから此の方の元へ来て居ても因縁あっても肝腎が判らんと後戻りばかりぢゃ、肝腎々々ぢゃ、学もよいが、それはそれの様なものぢゃぞ、途中からの神は途中からの神、途中からの教は途中からの教、今度の御用は元のキの道ざぞ、世の元からの神でないと判らんぞ、出来はせんぞ、生れ赤児の心とは、途中からの心、教、すっかり捨てて了へと云ふ事ざぞ。十二月十四日、ひつ九のかみ。
まだまだどえらい事出て来て日本の国は愈々つぶれたと云ふ処へなって来るから、皆が誠の神魂になって来んと誠の神は出ないのざぞ、誠ある処へ誠の神働くと申してあろが、誠ない処へ働く神は悪神ぢゃぞ、よう気付けてくれよ。いくら時節来たとて人民に誠ないと気の毒ばかりぢゃ、気の毒 此の方嫌ひぢゃ。道は神にも曲げられん、竜神は悪神ぢゃと云ふ時来るぞ、心せよ。誠ない者 今に此の方拝む事出来んことになるぞ、此の方に近よれんのは悪の守護神殿。愈々天の御先祖様と地の御先祖様と御一体に成りなされ、王の王の神で末代治める基(もとい)つくるぞ、少しでもまじりけあってはならんのぢゃ、早う洗濯掃除結構ぞ。御用いくらでもあるぞ、お蔭取り徳ぢゃ。出来るだけ大き器持ちて御座れよ、皆々欲がチビイぞ、欲が小さいなあ。話すことは放すことじゃ、放すとつかめるぞ。十二月十四日、一二 。
ひふみ神示 第04巻 天つ巻 / (あつまき)
第二十三帖(一三〇)
我がなくてはならん、我があってはならず、よくこの神示(ふで)よめと申すのぞ。悪はあるが無いのざぞ、善はあるのざが無いのざぞ、この道理分りたらそれが善人だぞ。千人力の人が善人であるぞ、お人よしではならんぞ、それは善人ではないのざぞ、神の臣民ではないぞ、雨の神どの風の神どのにとく御礼申せよ。八月の九日、一二 。
何をイメージしたところで、最終的には、「全ての」の在り方である、神に行き着きますが、また、そこで、面白い気づき、シンクロニシティが現れてくるようです。