「それ」がある事で、または、「それ」を認識する事で自分の至高の部分である永遠性として信じ切れる(潜在的に)のなら、宇宙人だろうが仏像だろうが何だろうが、それでいいのかもしれないが、「それ」が、自分自身の永遠的、至高の存在の一部として信じきるには難がある・・・「それ」と合体したり、テレパシーなどで自分の至高の部分を認識できれば話は別だろうけど。以下。 

今ここ。にいるのなら、二元性という中でエネルギーにより作り出した創造物は、今、その場で何かの物体を見ていようが、既に過去のものではないだろうか。それが善であれ悪であれ。 

よって、そのままそれが存在するかの如くに、過去の連続性を引きずっていることは、同じ事を繰り替えすかの如く、その発生源であるエネルギーの源に執着しているということではなかろうか。 

新しい創造をするそのエネルギーの源(思考、マインド)に、過去の連続性である思考、マインドの中に含まれる二元性(過去の善悪の思いから生ずる、あれこれ)を保持しつづける事は、また二元性を作り出すことではないだろうか。 

神の青写真を信ずるならば、その過去への執着状態は、神や天使を信じない事であり、神による新しい創造を邪魔している事でもあり、神に身を任せれない態度こそ、エゴともいうのではなかろうか。 

ここで、神とは、 

それが存在する何かであろうと、自分の中の至高の極みの思いや潜在的な何かであろうと、実現されてない限り、それは、次元を超越した何かであるが、その何かを、信頼することは、自分自身を信ずることでもあり、その潜在的な何か(それを霊と言っても差し支えないと思う)を信ずる事ではなかろうか。 

結局、自分自身とその自分自身の中にある潜在的な何かを信じれることは、自分自身が神であると同じ事になるのではないだろうか。 

また、その潜在的な何かは、自分自身という普段の視点から見ると、自分自身にもかかわらず、神の奇跡のように振る舞うのではないだろうか。それは、神ではなかろうか。

また、その潜在的な何かは、自分自身であるにもかかわらず、いつも奇跡的に振る舞っている訳であるが、その潜在的な何かは自分自身の潜在的なものが振る舞っているのだから、その潜在的な意識に恐怖やら恐れがあると、振る舞いの結果は、想像に難くないのではないだろうか。 

その潜在的な何かが、表面意識に顕在化させる源を安定させるには、何が大事だろうか?表面意識として、顕在化されている事により、精神を分離させる状態を安定化させるには? 

神々や天使、マスターなどといった、「二元性を越えた至高の存在として」、自分の身と潜在意識の中に叩き込む事むように、自分自信の身も心も、普段気にしない潜在的な部分まで、全部が全部、身を張るように、守られていると思えるようになることではないだろうか。思えるから、さらに、それが当たり前になれば、それは存在していることになるのではないだろうか。

それは、結局のところ、体験を通して、変化を受け入れ、変化している事を(感謝しつつ)楽しみつついれば、それを乗り越えていく自分自身を信じていくことになり、またその潜在的な何かに感謝できるようになってくる筈であり、更に顕在化される物事の発生理由が理解できるようになり、更に思ったように、コントロールできるように、または、その努力をするように、なっていくのではないだろうか。 

結局それは、神や天使が自分自身に住まわれている、または、自分自身である霊の宮へ、迎えるというのと同じであり、しまいには、自分自身が創造主であり、この世は幻影である、という認識へ到達し、真の現実を見つけ出す事になるのではないだろうか? 

上記は、引き寄せの法則と同じような右脳開発的な話である事に気づくが、二元性を越えた意識の安定には、守護的な意識が必要であり、目の前や体験している現実のあれこれに対して、分断されるような表面意識を作り出す精神に向き合い、それを変えていく努力もしなければ、思ったような現実の創造ができないという事でもある。 

守護的な意識とは、普段、意識的にしていなくても、あたかも自動で働いてくれるかのような、潜在的な状態を言っていて、表面意識に対して精神が分断するような(多くは悪い事や運が悪いとか恐怖をすぐ思うような)理解をする状態であるなら、それをフィルターしてくれる、潜在意識的な何かという事になる。 

これは、やはり、自覚的に分断する意識を認識し(想い叶わないと思う現実であれば、どのみちそのようになっているのだろうから)、作り上げた(または今からそうしようとしている)守護を信じる事は、楽しくない種となるエネルギーをフィルターする力を増していく事でもあるので、自覚的な努力も必要であるという事であろう。 

もし、守護的存在を、身に染み込ませるが如く信じきるようになるには、自分が作り出している、二元性的であっては意味がなく、もしそれを偶像にするならば、それは、誰かが作り出した想念を得るか、自分自身でイメージした、存在しないものを存在するイメージ(上記でいうエゴ)なので、それを守護とするなら、自分の力から、遠ざかる事になるのではないだろうか。または、思ってもいなかった方向にいく可能性があるのではないだろうか。 

ここまでの話から分かることは、潜在意識が顕在化され意識に現れているのなら、それは、結局、意識は高次的な現れであり、意識は共有されている事になるのである。共有されているという事は、自分一人でこの現実全てを作っているわけでなく、大勢の意識の集合体であるという事である。 

もし、新しい現実を夢見るなら、自分自身だけでそれを実現しようとすると、できるだろうか?おそらく、認識に足りない部分があり、変な事になってしまいそうである。そうすると、同じような集合意識に合わせることで、その現実を取り入れる事になり実現できてしまうのではないだろうか。 

その取り入れ方は、自分の至高の意識を自覚的に意識していくことで、その意識に同調する事がかのうなのではないだろうか。ここで、波動という言葉がでてくるが、そういう意識を自ら想像できることは、そういう思考や想像を行えるような、意識的な波動と同調できるということでは、ないだろうか。 

結局、この意味は、その同調した意識がこの世という幻影に健在化されるのであるから、この世が、そのように変化していくという事でもあるわけである。また、それは、新しいリアルという事にもなる。もう、この時点で、神界、霊界、幽界、現界等、何でもありの話となってくるので、否定する理由もなくなってくる。 

それら全て、創造主という至高の意識による幻影とも言える世界から逃れるには、この世を作った創造主の波動の域(要するに次元)を上まわるか、無にする事ができれば、いいのかもしれないが、果たしてそれは何を意味するのだろうか。結局のところ、自分にあっている波動の世界に存在できるなら、それを考えることに対して、果たして意味があるのだろうか。 

もし、考えるとするならば、我々は一体、どうなろうとしているのだろう?! 
なぜ、自由意志があるのだろう?! 
やはり、この世は学校であるのではないのか?! 
という事になってくる。 

こんな事を考えるような、「私」は、あの世があったとしても安息の世界はあるのだろうか?! 

実は、そんな事を考えること自体が、天国と地獄という、二元性を作り出してしまうのであろう。 

今ここ状態、今の瞬間瞬間、潜在意識から今を顕在化している源である、至高の永遠の存在である事を、身を張って感じれない、それに信頼が無い場合、疑いが生じた際に、そうなるのでした。 

こういうときに、永遠性のある至高の「それ」が心の中に出来てしまえば(存在したと言って差し支えない状態)、いつでも、二元性的な思考から抜け出せるのです。また、おそらくは、それは、フィルターしてくれているのであろう。それは、そういった現実を作らないという事にもなるのではないだろうか。※そういう存在として、「それ」が心というかマインドというか・・・潜在的にあるならですが。 

結局、神との接続点ともいえる潜在意識に対する信頼が無い場合、今までに植え付けられた、潜在的だったり自覚的に恐怖している思いと、それを作り出している善い悪い、プラスマイナスという理解をする精神的な判断が自分のなりたい姿に対する力をそいでいる事になるのではないだろうか。 

このことから、荒行や、苦行をしたからといって、何かが変わる事はない可能性が大きい。むしろ、その時に体験した、身体的な痛みや苦痛等が、潜在的な恐怖心やトラウマとなり、それが、自分の真の理想なる思いを実現する邪魔をする可能性だってある訳であろう。 

そして、その行をする事により、自分自身である神を信じきる程の潜在能力が得られていなければ、なおさらであり、信じきるといっても、結局、自分自身の潜在意識に信じきれるものが何も無いところから始めるなら、もし、信じる何かの理想があったとしても、潜在的には何を持って信じきるのか不明であろうし、結局、潜在的に信じきる事ができず、それをやる事で、余計にトラウマだけ残り、結局、多くは、信じきる程の修行ができないまま、無念となる可能性が大なわけである。 

滝に当たって、気持ちよかったくらいの体験の方が、よっぽど、よいかもしれない。(何も得られないかもだけど)という事ではないだろうか。 

体や何かが嫌がる事をやっているのに、それが、顕在化の源である潜在意識に染み付いてしまっていては、まともな力が発揮できる分けないという事である。ましてや、体が嫌だというところで、潜在的な二元性が発生してしっていることになるので、仮にいつもと違う事(奇跡的)に感じる物事が起こった事に対して、よほど二元性を通り越した「何か」を信じきれるほどの、潜在的安心感を得る事ができなければ、そこで、無駄に終わってしまうのではないだろうか。その場合、体験できただけ、素晴らしい話であるにも関わらずにである。 

※おおよそ、この世の社会に出ている人々は、嫌な思いをして、嘘をついたまま生きているのではないだろうか?悪人だったり、冷たい人程成功するとは、根っからの悪人や冷徹人はこの世の非常さに順応しているわけなので、そういう事ではないだろうか?自分が悪人だと思い込んだとおもったとしても、うまくいかないなら、それは、天分では無いということは無いだろうか? 

◎参考リンク:2013・10・21追加****
アルクトゥルスの集団:2013年10月13日 [アルクトゥルスの主]
http://twinkle-star999.blog.so-net.ne.jp/2013-10-20-1
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※心をじっくり見てみれば分かる話である。嘘をついたままにしない修行をしていれば、あらゆる善いこと悪い事を体験するであろうし、中立、中性を維持して乗り越えていく過程で、それらの過程が「今ここ」にいる為の流れであり、それらが奇跡であったという事がわかり、全ては自分自身が善くなる過程だったという認識ができるし、しまいには、行き着くところに辿り着くのではないだろうか。 

◎参考リンク:2013・10・21追加****
アルクトゥルス・・・2013年10月18日 知覚/創造パート2-「ある」がままに委ねる
http://www12.plala.or.jp/gflservice/Arcturus131018PerceptionCreationPart2.html
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実は、修行というような荒荒しい事をしなくても、リラックスしながら、内観、内省するなどで、同様な事が、いつもの現実を通して可能なようである。これが、この世の社会が修行の場という教えがある所以ではないだろうか。 また、幸いなことに、集合意識の観点からすると、心に素直でいることは、失敗とか最悪とか、故意であろうと、無意識であろうと、ネガティブな方向へはいかないようである。

これはおおよそ、理に叶ったものである。多くの人々や存在がそのように願ってきたということであろうし、無理やりし向けなければ、心は嘘付かないので、「善一筋の世界 by ひふみ神示」に向かっているということであろう。また、「無限の存在」はそのようなありがたい何かであると言うことであろうし、それが、自分自身の天分でもあるという事ではないだろうか。

参考:活路の見付け方・・・・364号 2013年10月17日追加***

ただし、奇跡の連続性というか、奇跡と分からない奇跡(要するにいつも奇跡は起きているという事)を神秘的な何かとして感じ取ろうとするなら理解できるのであり、自覚的に意識しつづける場合であろう。

瞬間瞬間の普通な事が奇跡の連続である事だと気づかずに、突然何かいつもと違うことが起こったときに、それを、善いこと悪いこと、運が云々、私はダメだとか、神に逆ギレ、人生が苦痛に観じる等といった感覚をトラウマのようにマインドの片隅に置いたままにしてまっているのではないだろうか。これは、苦行や荒行とて同じプロセスでそうなってしまうであろう事が想像つくのではないだろうか。 

奇跡的な能力を発揮するという例として、右脳開発や神秘を体験できる様々な教材等、いろいろあるが、潜在的な意識を信じるという事は、神を信じるのと、同様なプロセスが必要ではないだろうかと思う訳である。こういった教材は大抵はリラックスをする事が必要であるし、自分を信じる事を教えてはいないだろうか? 

その真髄は、神や天使等高次元の存在(顕在化の源である、潜在意識のフィルターや「変換」属性として考えるといいかもしれない。神や天使と考えることは、それを大事にする事でもある。)を正しく認識して自分の物にしていけば、もっと素晴らしい事になるという事を言っているのと同じことになるのではないだろうか。 

このように見ていくと、神秘的な探求に於いて、宗教等を真っ向から否定するものでもなく、その教えや方便等の真髄の部分のみを自分自身の体験から抽出していき実践すれば真理に辿り着く訳で、疑い深いなら、超現実的な話に繋がるような科学的に解明されている現象を知り、その現象を神や天使という存在にひも付けていくと、それはあるという理解になるのではないだろうか。 

結局、自分自身が作り出しているのであり、自分自身を今の状態に置いている森羅万象に対して、瞬間瞬間、感謝しつづける事は、もっと素敵な世界がやってくると言うことに帰結するのではなかろうか。 

超越的な世界へ・・・ 

神や天使という存在とその「属性」を創造してしまうのは至高の自分自身でもあり、存在に対する思い込み、特に二元的だったり偶像的だったり、物に対する思い込み(また、集合的潜在的な意識で付けられている属性もありそうだし、どうなっているのか・・・)がよくなさそうである。 

また、自分自身はその集合体の一部であり、それは存在する事になるのだから、その存在と波長を合わせる事も可能なはずであり、その集合意識、それを高次の意識とかいえるのではないだろうか。また、それは存在するのだから、意識的な段階的な階層もあり、また、さらにその意識の中心(心や思考の奥深く=この三次元、どうすれば理想の世界になるか理想の世界を空想したり、どのようにしたらそれが可能だろうか、一体何がこの世を作っているのかなどイメージするような事)に向かうことは、さらに上(その中心=さらに高い次元)があるという事を自分なりに理解する為のシミュレーションであり、様々な教え等を読んだり、実践して起きた現象に対する、理解と真実の確信の道筋を付ける事ではないだろうか。 

結局、意識という見えない世界の部分において、神や天使は存在するのであるし、それは自分でもあるのであって、ただ、今の多くの人々の意識レベルでは、あたかも目で見えるように、手で触るかのように分かる訳でもなく、自分自身という存在の真実として何らかの方法で「感じる(感じ出す)」のであり、それは、自分でありながら万物を構成している何らかであり、高次の自分でもあり、自分自身が作り出しているのであり、それは、意識体として存在しているのであろう。 

ただし、自由意志が存在するという事は、ユニークな自己の部分である、自己の神として自己の確立をしていく事は、至高の神の青写真の一つのピースを仕上げる事であろうから、心の中のある神を信じるあまり、その神そのものになってはオリジナルではないし、ある天使になってしまってはそれも個を無くすのと同じであるし、おそらくそうなれないだろうから、やはり、それらは守護であり、自分自身は至高の存在を目指すべく、守護とともに、真実の自分であるオリジナルを目指していく(思い出していく)のではないだろうか。 

こういう事で、意識しなければ、それは消えてしまったように感じるし、意識すれば、ついつい、それに頼りきってしまい、間違えれて、それを貶したりすれば、それはまた、二元性の何かを作り出す性質に変化してしまうだろうし、なければないで、無意識部分を放置し、また、思いもしないような事になるだろうし、完全意識を得るまでは、自己の部分と守護の部分との関係についての塩梅が難しいところであろう。

毎日、祈りをして、罪汚れ、福払い、厄払いをして、今ここ(瞬間瞬間)、神の青写真が、ストレートに潜在意識という鏡を通して反映されるよう、凸凹していない真っ平らになっていく様を感じ取り神々、天使に感謝するという事は、自分自身への信頼、霊への信頼を増していくことではんだいろうか。

このように、どう考えてても、神や天使が仏像や女性や男性等のような「もの」で表現できる存在ではない事が、想像つくのであって、偶像的に感じるにはあまりうまくない話のように感じるし、存在の集合的である「我々」である意識の極みは、神の青写真と言われているような、大元になる無限なる存在という根源があるのではないだろうか。1:11 

それを強く感じるように、もっと分かりやすいように進化し、意識の拡張をしていくには、自分自身の至高の創造(創造の願望である至高なる理想の根源)とはどんなものであるのか?!深く・・・深く・・・どこまでも深く、感じ、思考し、イメージし、それに対する感じを得ていくだけでも、高次の自分のあり方を探求し波動を合わせていることにはならないだろうか。 

この世が学校であるというのは、おおよそ嘘ではないな、と認識してきた、今日、この頃です。47:48 

1:23

おわり 3:45