托鉢・・・心の奥底に疑問があったのか、何故か、先日のブログに書いたのですが。

貶しているわけではありません・・・いや、深層ではけなしているかも。何だか罪悪感というか、心を探らなければパターンです。・・・それで、宅鉢ってなんの意味があるのだろう?って思い調べました。(勝手に思い込んでいるかもしれないので。)

そしたら、その職業的なあり方についてだという事と、なんと、私がその状態である事に気づいたのでしたw

別にそれを求めていたわけではないのですが。その托鉢をしなくとも、そのような事になっている「私」がいるわけでして・・・自分から家々を歩いて周りはしませんが、同じじゃんwちょっと~w

まず、そもそもは、いろいろと、不思議な事を感じだしてから、偶然って単なる偶然じゃないぞ!という事になってきてから、コツコツとやってきた結果、神、天使、アセンデッドマスターを信じれるにまでなり、意を決して、心に従って行動を始めだしたのですが、その結果なんです。

身の回りの人に対して、神に向かっているとか言ってもいませんし、行らしい格好やお祈りや瞑想の姿を見せたりもしていませんし、ハタから見るとごく普通な感じでしょう。

もしかしたら、可哀想な人だと思われて、そうなっているのかもしれませんが、それはそれで表面意識的な組み合わせでもうまくいくようになっているのではないかと思う次第です。

でも、それは、他人から見た場合で、そう思わているかも?というだけの勝手な想像の話であって、私自身はそうなった不思議さ(守られている感)や、支援をしてくれる人々に対して、今まで気付いていなかった事を気づけて幸せな状態なのです。

更に、天使やアセンデッドマスターといった存在と、僅かながらの感覚でしかないですが、塵も積もれば何とやらで、今では、ないのにそれはある状態ですから、それだけでも幸せですし。

だからと言って、生活保護を受けているとかホームレスであるとかではなく、あくまでも、自分で行動を起こした結果、何故かそういう流れになり、慈善的な施しを受け、何も言われずに与え続けられている状態なのです。

また、こちらから、どういうものが欲しいとか、殆ど求めることもしていません。神を求めるにあたって、色々な事を考えてみても、特に何かが必要ではないからです。

ただ、それは、私個人の話であり、意図していないものまで、全員が全員そうである必要はないと思っていますし、意図した結果、全ての意識の中の総合結果として与えられた環境だと感じていますし、誰もがそうである必要がいまいち見えてこないので周りの人にも同じようであってほしいとは願っていません。

ただ、幸せを感じ、神に感謝させてもらっています。

※これは私がある事の理解をしたいが為のやり方であって、オススメするようなものではないでしょう。何というか「存在」を信じきるためだったり、いろいろと私なりの理解の為のプロセスなのです。なので同じことをすれば真実を得られるというものではないでしょう。意を決して始めて理解しつつ進む事で自分自身にとってどういう在り方何が相応しいのかわかると思います。

道はそれぞれ、そうなる人は自ら選んでそうなるのでしょうし、不思議と行き着いたスタイルは様々な事でしょう。たぶん。ですから、今の私のような形では一緒に探求することもまずないような気もします。

こういうところにも、神や天使を感じ真実を得る不思議さの理解、意図する事の意味を理解する一つのキッカケがあります。

ただ、今では、この数年間、神とかその真実に向かい合って得た自分なりの真実からの理解と達成感、何故か与え続けられている事など感謝到れりの念があり、何か恩返ししたくなってきていました。

今更、神や天使という存在について否定する理由もなく、人それぞれが「それ」を見いだせれば幸せが増すだろうにな~と思いに至り、折角得てきた真実に通じるもの・・・

何か以前とは違う形で、人々が自分自身で真実を見つけられるような方法で恩返しができるといいな~とか、そのような思いに至っています。できるなら、簡単で、広い範囲に、何かとして。

この道は自分で歩むものだと分かりましたし、寺院や宗教という事はないでしょう。。

それら過去からの遺物の存在は無駄にならずいろいろと参考になりましたが、寺院に神や仏が降りるというのならば、本物の寺院は自分自身であり、求めれば天使、アセンデッド・マスターと何とか繋がることも分かりましたし、それであるから真実を共有する以外、伝道する事を意思する必要もないようなので、もっと他の実用的なごく普通のありきたりな事から神や心の中心に向かえる何かと思っています。

結局、托鉢については、、そのあり方やいろんな意味を含めて、職業の一環としてやっているなら、どうなんでしょう?という事なのだと思います。また、与えた方も、それで、浄化された、徳を貰ったなんて思うのはどうなんでしょう?という事だと思います。

本当に神仏を求め真実を見つけ理解しようとすることは、教え通りにすることなのか?教えを守ることなのか?

心に従う、その道ではないのか?

心に嘘ついてやってないか?

だからといって宗教やその活動を否定しているわけではありません。真実の光る教になればよいだけですから。求めて理解しようとする人には、宗教だろうとなんだろう関係なく、掴めてくるって事でしょう。