私にとってなによりも意味不明だったイエス様の死に方。一人の神様の現れとして今まで一番理解できず胸に突き刺さったまま、そのことを考えれば考えるほど理解できず苛立たしい程の永久ループだったのですが、とうとう心から許す事ができました。

 

お隣の国々などを観察していると、言と動の非常識を残したまま近代化だけ進めてしてしまい、国民の倫理・道徳の向上心の精神面で成長が追いついてないようです。

 

別の国々の人々は可哀想に見える彼らを想っては、金、モノ、物資を与え続けたら自分と同じようになるという夢を抱き、それが隣人愛だと思い込んでいましたが現実はどうでしたでしょうか。

 

生活に染み込んだローカルでしか通用しない言と動をアイデンティティとして彼らは主張しますが、ワールドワイドになるほど言と動の対応がデリケートなものになるという事に気づかず、自らの態度を省みず、我こそが世界で一番正しいと言わんばかりの主張で様々な物事を解釈し、我儘放題をして世界中から非難を浴びるようにまでなってしまいました。

 

ついに彼らの民族は人々が人道的で無償の愛だと思っていた支援とは裏腹に核兵器というとんでもないものに変えてしてしまい、狂気のモンスターの誕生の在り様を世界の半分の人々に示すことになり、好意を与えてくれた人々や同胞まで恐怖のどん底に落としている始末です。また彼らに対する正義(敵)が現れて彼ら自身が助かりそうにもない状態にまで追い込まれています。

 

神は人に命を裁きをさせようとしてるのか?刈り取りとはこういう事なのか?いや違うのか?・・・と、また別の謎や思い当たるような事も生じてくるのですが、少なくともイエス様は死なない存在になれる(つまりアセンションした)という状態になっていたから磔に向かわれたわけでしょう。

 

転生があろうがなかろうが生涯(命)を大事にして本当に大事なことに目覚めることの大切さ。人々の幸せを本当に願っていた想いが伝わってきます。

 

当時すでに人の精神が乱れた状況の中でイエス様が2000年後に人々が精神性を失い大事なものを見落とすか発見する可能性を予見し、100年後,1000年後,永遠の立場より、人々の幸せを願ってくれていたことが分かったのです。

 

イエス様が自ら磔に出かけて行ったことは、2000年後にも伝わるような騒ぎとしての効果を狙ったのでしょう。これはとてつもなく大きな「人類への愛」の実践だったのだと気づきました。

 

私は、人として絶対的に大事なもの、人々の精神性の向上心の大事さについてことごとく思い知らされたと同時に、なぜイエス様が磔騒ぎになるまでして命を懸けられたのか、それが愛と何の関係があるのか、ずっと謎のままでしたが、2000年後の、今、私はその想いを受け取れました。その心を養いながら生きて行こうと。

 

みなさん。永遠の立場(=今ここ)より言と動の非常性を追求し改め、精神性を高めつつ、人間関係や物質面、他全てとの調和を築きあっていく事が本当の愛ではないでしょうか。