第二十四巻 黄金の巻

第十八帖
     (五二九)

 祈れば祈る程悪うなることあるぞ。結構な道と判らんか。心して迷ふでないぞ。天国の門、貧者富者の別ないぞ。別ある境界つくるでないぞ。世界中一度にゆすぶると申してあらう。釦一つででんぐり返ると申してあること、未だ判らんのか。神罰はなし。道は一つ二つと思ふなよ、無数であるぞ。(但し内容は一つぞ。)新しき道拓いてあるに、何故進まんのぢや。下腹からの怒は怒れ。胸からの怒は怒るなよ。昔から無いことするのであるから、取違ひもつともであるなれど、分けるミタマ授けあるぞ。高い天狗の鼻まげて自分の香嗅いで見るがよいぞ。鼻もちならんぞ。今迄のことちっとも交らん新しき世になるのであるから、守護神殿にも、判らんことするのであるから、世界の民みな一度に改心するやうに、どん詰りには致すのであるなれど、それ迄に一人でも多く、一時も早く、改心さしたいのぢや。気ゆるめたら肉体ゆるむぞ。後戻りばかりぢや。霊人と語るのは危ないぞ。気つけくれよ。人は人と語れよ。かのととりの日。一二十

メタトロン:巨大な嵐と地球温暖化


報道媒体の事件への集中

もしもこの巨大な情緒的なエネルギーが怖れに基づいたものではなければ、それは実際にそのハリケーンを海上に留めておくか、あるいは地滑りを遥かに少ない強さのエネルギーに留めておく効果を持つことができたはずです。

 

そのためもしも集団の反応が、恐慌状態や怖れを持たずに至高の善と無害化に対する祈りに調整されていれば、その効果は自然な出来事にひとつの非常に有益な影響力を持っていたでしょう。

 

それは情緒的に帯電した増幅を、むしろ拡大するよりも妨げることができたはずです。分かりますか?

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※個人的には、お祭り、と祈りの関係が、真実を語っているのではないかと思います。重たい儀式ではなく、楽しく、歓喜の中で祈る様は、想念の持ち方に対する注意や瞑想する意味合いと同じように感じます。

神を求めるときはいつ?