前回記事では意識に受けているものを解釈してみました。しかし、それでも、文章や言葉に表すと伝えたいことは100%ではありません。正直1%も伝えれているか・・・%で表す自体しょうもないというか、そんな感じです。

自然を感じて、感じた何かを、人それぞれに絵で表現するようなものです。自然を感じて、感じた何かを、人それぞれに歌で表現するようなものです。感じているものは、自然という同じテーマですが人それぞれに違った表現をすることでしょう。実際、そうだと思いますよ?

これ!霊的なテーマとシンクロする!に掛かってきます。※ひふみ神示の芸から神の道は入るのは誰でもできる!という言葉に一つ解釈が増えました!ヽ(=´▽`=)ノ

ひふみ神示 第24巻 黄金の巻 第七十七帖
 不二の仕組とは動かん真理、  (ウズウミ)のナルト(成答)の仕組とは弥栄の限りなき愛のことであるぞ。神の理(ミチ)に入り、理(ミチ)をふんで居れば、やり方一つで何でもよく、嬉し嬉しとなるぞ。世の元から出来てゐるミタマの建直しであるから、一人の改心でも中々であると申してゐるのに、ぐづぐづしてゐると間に合はん。気の毒出来るぞ。めぐりと申すのは自分のしたことが自分にめぐって来ることであるぞ。めぐりは自分でつくるのであるぞ。他を恨んではならん。美の門から神を知るのが、誰にでも判る一番の道であるぞ。芸術から神の道に入るのは誰にでも出来る。この道理判るであらうが。審判の廷(サバキのニワ)に出たならば、世界は一人の王となるぞ。御出まし近うなったぞ。自分よくして呉れと申してゐるが、それは神を小使に思うてゐるからぞ。大きくなれよ。(一月三日)一二十

・他を恨んではならん。言うまでもなく。良い例が最近起きていますよね。
 喜びより、真、善、美、愛が生まれ、その繰り返しだとあります。恨みや憎悪はその逆、悲しみより生まれるものという事です。もし、何かを恨むような事になっているならば、何かの悲しみの種に関わっていると自覚して考えてみるところでしょう。


・自分よくして呉れと申してゐるが、それは神を小使に思うてゐるからぞ。
大きなテーマが流れている事を察知できるようなれ!と説く。

大我に通ずる話でしょう?それを絵や音にできる、能力=認識力とも言えそうですね。しかも、神や霊の真実に通じているかどうか。見方が変わってきました。波動がわからなくてもそのような考えが生じているときの状態で波動の上下チェックにも使えます。

過去に書いた絵を思い出せるか、残っているならば、無意識に流れているとしても、そこからもわかるかもしれません。

テーマの解釈次第で、どの程度、自信の真実を理解しているかがわかるようなものです。

思考状態で言うならば、いろいろな状態を体験から考慮してみると、多くの人の地上的自然なあり方では、小我では自分だけの事について何かを考えています。大我では全体ですから自分をどうにか!なんてのはない状態です。

自分も全てもという思考状態です。イメージなどについても同じです。上のように下のようにもというように、大我と小我を表現するステージでイメージ的なものや感覚が違うだけでしょう。

体験したから繋がるのかという話になると、幼少の頃から地上的思考をしていたとは言え、今、思える事としては、大我を意識していたと思います。それは幼少なりのですけど。正義とかう宇宙的とか自然の不思議さとかです。その頃、学力が身につかなかったわけです(笑)。多くの人は何処かにそういうものを持っていると思います。



神との対話として、私のやっている方法を書いてみてはいますが、これまた三次元的、直線時間的なやり方であろう可能性も考慮する必要があるかもしれません。思考自体が直線的とも言えます。何となくわかってはいるんですけどね。その攻略が今後の課題です。

自覚の問題なのですが、瞑想する事でトリップすると、確かに文字やら何やら浮かんでくることがあります。滅多にありませんが場合によっては別空間に行ってしまったような感じがする時もあります。

体験することは即ち瞬時に色んな情報を得るようなものですので今ココの最上の体験にも思えます。普段でも、宇宙とか無と壮大を想像して感じ入るなば体験しているようなものだと思いますよ。自然に足を運ぶのも似たようなものではないでしょうか。ただ、それでは実感として変化を大きく感じないだけで。

現実の中に霊を感じれなければ幽斎の体験にも思えます。瞑想トリップのような体験をした結果、これまたシンクロにシティに現れるので顕斎の体験もあるといえばあるのですが、普段の状態から神かかっているという実感はトリップ状態のようなそれだけでは得られにくいと思います。これが、チャネラー等が何処かに繋がっていてメッセージを送っているにも関わらず、現実との解離によって変化に対して心配に陥るところなんでしょうね。

これは何なのでしょう?

・・・・単なる一時的体験なのか?

面白いことに、私の場合は、日本のチャネラー、神託者がアチラコチラで名前にだされるような神々様とか霊とか、過去の何とかという存在の名前ではあまり繋がらないのです。ただ、ひふみ神示には可也リンクします。

ひふみ神示の一つを理解したと思えた時か判断に困っている時、まるで世界中のアチラコチラでそのテーマが降り注いでいるようです。また、その逆もあるようです。なので卵が先なのか鳥が先なのかという言葉をよく使います。紙なのに神(笑) 宝は取り得、フトマニだと書いてあるくらいですからそういうものなのでしょうね。

さて、神との対話にして、神の理解という点で、これを親や兄弟だと思うことにしています。多分対話について、ここが一番重要だと思います。

神の事で想像を巡らせるとなると、色々、失礼ではないか?とか、あると思いますが、聞かなければわからないことについて、変なことを思ったからといって、あーだこーだ思い巡らせるのは、あるとき、ちょっと違うのでは?と思いました。

シンクロニシティを得だしてから、変な事思って折角得た状態から外れたら嫌だなとか思いましたが、子が親と話すように接しなければ、どうやって真実を得ることができるのか?と思い、あまり(とは言ってもというのはありますが^^;人間ごころですね。)気にしないようにしました。

綺麗な言葉で言い換えれば、神様!私の全部を見てください!そして分からない事を教えてください!そんな感じでしょうか。

自分で言うのもなんですが実際はひどいものです。神(何々)様、色々考えても、わっかんないよーwwwとかそんなのばかり^^;もう、おこちゃまです。正直、大人なのに、オッサン、オバサンなのに、何させんのよwって思いたくなりますが、それは人心というものです。

それが素であるわけで、やってみたら案外良かったようです。この関係、子供の頃、親に質問する姿を思い出しませんか?そう、霊的には私達は子供なのです。幼児かもしれません。素で向かい合った事ありますか?

喧嘩腰で向かい合いますか?それが素ならばそれで良いと思います。何故って?神はすべてを経験しているのですから何を隠そとしても今更感でしょう。子供が大人を相手するように相手になっていません。間違いなく。

追記:自分を隠して神と対話するのなら神からすれば嘘つきですし自分の真の姿を否定していることになります。岩戸は閉まったまま。自分なのに自分を隠してしまえば、どうやって神は何かを伝えることができるでしょう?理屈で考える時点ではそんなところでしょうか。乗り越えるところだと思います。

追記:でも、くれぐれも、人相手には誰とで安易にやらない方が良いと思います。理解の程度が神じゃないのですから・・・洗脳されたり真剣なツモリがただのお人好しになって人間的な方法で利用されてしまう可能性があると思います。相手が人の場合は、その点わきまえてやることでしょう。いろんな神>>>>>人様がいらっしゃるようですから、何を考えている分からない低級霊に合わせるようなものです。

最近(9分後修正^^;この記事を書く前つい先程の事です。一応この内容を書く流れでのシンクロの類としておきます。私のためにですけど。)、私が得つつある霊的な事に関する理解が、山奥からやってきたような高位の霊的指導者の真理を得る方法と似通ってきている事に気づきました!

そこまで理解しつつあるということは凄いことです!(何が?特別な修行とか監修など受けていないのにってこと。ただひたすら神を理解しようとしているだけです!)自分をそういうつもりは全くないのですが、

※そういう人たちと理解が似通っている事に関する自尊心になったにしても、とても神的な大人であるとは思えないのと、独自の能力だけでそれを見出した事の驚きがあるわけで、能力のバランスやレベルが違うってのもあります。

一般的に高位の霊的指導者と言われるような、人間的には立派と言われているような人でも、神からすれば子供(幼稚)もよいところなのでしょう。(察しがつくようになってきました。) わかってくると調子に乗ってしまいそうになるので、それくらいに思ってやっているということです。

知れば知るほどそう思う事でしょう。または、神とは、そういうものであるという理解が付いてきただけで、あらゆる能力や更なる理解への入門の間口に立っているだけでしょう。※ひふみ神示もまだ謎だらけですし、こんな事くらいで驚いて喜んでいるくらいですから^^;

数日間や数ヶ月でひとつのテーマしかわからないとしても、続けつつピンを貰っていれば、そう言うものです。理解することはたくさんあるので集中すれば日々そのように感じるのかもです。※偶然の真理(シンクロ)が錯覚かもしれないと言っているわけではありませんよ。そこはお間違いなく。目をそらさないで体験をしていくうち意味はかわかるでしょう。

全部自身の能力だけから見出そうとすれば、悟ったというようなトリップ状態とか、そんな簡単なものでは意識として理解できないという事かもですね。全部能力が揃っていればよいのですが、思考が思考だけに、大変な思いをするのではないでしょうか。

だから神を持ちだした正義とかああいうアホくさい戦争や、細々とした諍い等やめてしまえばよいのにとも思います。神を霊的な真実を通して理解するなら、なぜ神が善なのか喜びや歓喜なのかという、言葉にしなくとも、霊的倫理的なようなもの、そいうところにもつながってくるのです。なんとなくわかると思います。ルール等必要ない世界ってのが。

神との対話というタイトルより対話の方法(私のやり方)ですが、神々、天使等との対話として進めてきたことです。頭のなかでは独り言のような対話なのですが、それに対する思考に対するピン(理解の到達性の確認)をもらっている感じですね。自身が神なのだから独り言が通じてもおかしくないでしょ?という発想になります。

これが瞬間瞬間、自身の「神の理解をしようと試みる独り言」から、正しいインスピレーションとして自身で(そうなった時には、自身等あるのかさえ不明ですが)わかるようになることが、私の夢というか、妄想というか・・・そんな感じです

(ここではやりませんがそれには理由があります)。 一つの言葉や意識の解決(刷り直し)の為に思考等の(解決)時間がかかるため、ジワジワとその自立に向かっているように感じます。でも確実に。

偶然を偶然とせず霊的な動きが分かるところに着目して理をつけ進むんでみたら、神を理解しようとする独り言(理解しようとする態度)が、こういう結果になっています。まさに、全部の能力が揃ってなくても進める道が用意されていたのです。これこそ誰にでも可能な誰にも変えられない普遍的なものかもですね。

だから山奥にでもいそうな霊的指導者のように一人で何でもかんでも全部できなくてもても神を理解しようとする分には能力如何によって蔑む必要はない道なのです。全部神なんだから~どこでも理解できるはず!という発想の検証にもつながりますよ。これって凄くないですか?

神と通ずる事について発想したことの検証である!・・・この言葉も良いですね!

私のページに訪れる初めての人に対してですが、シンクロニシティといっても、その日、その時レベルだけでやってきました。2,3日立ってしまったら、探求や検証としては考えものですからね。何よりも、自分を疑ってしまうでしょうし。

何を言っているかというと、真実だと自分がわかるように正確に検証しながら探求するという事です。私や他人が真実かどうかなどはどうでもよい話なんです。自分が真実かどうか!です。わかりますよね?