雑感 NOT FOUND -2ページ目

 ■実質的な事をしようと思い、この夏に決断に迫られる事があった。しかし、当初期待していたものとは違った。若いうちに老後の分まで稼ぐか、肉体の衰えと共に給与を増やしていくか、これらの選択だ。その組織の説明を聞いていると"もしかしたらストックオプション"が得られるかもしれないというものだった。しかしながら、まず事業の中心に行くのにも恐らく骨がおれるだろうし、事業の中心人物になれたとしても、そもそもその事業自体は成功するのか?仮に成功したのであれば、ストックオプションは得られるであろう。だが、確実ではない。未来に対し誰も予測など出来ないし、分析していたって無駄だ。正直、話を聞く限り中々無い様な上手な話であったが「確実性」を感じられなかった。本当かどうか嘘かも怪しい餌を信じ、それを動機に使われるのが、僕は性に合わないし、違和感を感じた。

 ■この夏に、「勝浦(海)」「蔵王(山)」「那須(山)」へ行った。やはり、当然ながら普段住んでいる土地と違う土地に行くと、その土地独特の空気があるのに気が付く。春から夏に、夏から秋に、秋から冬と共にに移り変わる時に感じる空気に似ている。中でも「蔵王」はお気に入りだ。観光地ではあるが、リゾート地にはなりきれてなく、どの人が現地の人なのか、何となく想像つく。蔵王国定公園は、見はらした土地の遠近感が何とも言い難い造形美。「那須」は天皇の別荘があり、コンビニの看板の色が茶色で驚いた。避暑地としては承知して、やはり山にある施設で宿泊したので涼しかった。が、平地になると東京などとあまり変わらない。和牛を売りにしたお店が多い印象。食べた。美味しい。リゾート地化が完全に進んでいると思われるので、観光客が非常に多くどの人が現地の人か分からなかった。夏場にまた来たいと思った。

視野

 定期的に見てくれてる方、たまたま開いた方、アクセスありがとうございます。一体誰が見てくれているんだろう?僕も知っているし、僕の事を知っている人(友人、知人)が見ていてくれているのかもしれないし、たまたま興味を持ってくれた僕の事を知らない人かもしれない。気になります。

 それはさておき、自分の視野を広げたいと最近は考えています。きっかけは友人の友人の話を聞いた事に始まります。考えたとしても中途半端で投げ出していた将来について、そろそろ真剣に考えていかないといけない年齢に差し掛かってきました。やりたい事ってなんだろう?と考えても結局自分の事なんか分からないと思いました。それでも具体的にやりたい事は見つからないとしても、自分の中では自分がやりたい事と仕事は違うと感じました。もちろん、やりたい事と仕事が直結している人も居ると思います。それはそれで良いと思うんです。

 遊びと仕事、どっちを優先したら良いかと考えるとどちらもやりたいな、と。仕事は仕事として割り切り(それでも本当に嫌だと思う仕事には付きたくありませんが)、別で自分のやりたい事はやっぱりあります。遊びがしたいなら、お金が必要だし。お金が必要ならやっぱり仕事はしないといけないし。こう考えてるから、どっちも優先させたいんだと思います。仕事だけして遊びを忘れていったら、ストレスしかたまらないでしょう?

 そんなこんなで、仕事と遊びの視野を広げるには、やはり先人の大人の方々にお話しを聞くべきだと思うのです。自分ひとりでちまちまと考えても、自分だけのスケールでしか考えられない。色んな人と話して、関係を作って、自分の視野と行動範囲を広げる為に、何かしら動こう、と先日ひしひしと感じました。続きを書こうと思ったけど、眠いのでおわり。以上。

最近

 どういう訳か同じ本を何度も繰り返して読む傾向があるが、意味はあるのか?という疑問に遭遇した。英単語や漢字、試験など何かを暗記する為に同じ事を反復して頭に刻み込む事は良い事なのかもしれないが、趣味という範囲においてはどこかおかしい。というか、飽きる。飽きるという考え方そのものが嫌いだから、自分と戦っているような気分にも陥って来る。当初気がつかなかった、別の視点から解釈する事も出来、一度読んで思い込んでた事が、がらりと変わる瞬間が好きだから、何度も読むのかもしれない。
 
 大学の心理学的な授業(学習・発達論)で、「自分の事など分からない」と教授が仰っていたが、まさにその通りだと思う。何故、自分が何回も同じ本を読むのかなんて、厳密には自分でも分からない。普段は冷静であると自覚しているつもり(第三者が見たら違うかもしれないが)だが、一たび一時的な感情で暴走し、それが負の自分の記憶の遺産として残る事が正直な所、多々ある。これは僕に限った事では無いと思う。その失敗から学ばなければタダの猿と一緒になってしまう。自分自身、それが嫌だから学習するようにも思う。

 しかし、嫌だから学習して治すのは自分自身の事であって、他人の事が嫌で欠点を見つけてそれを第三者に話すというのは少し違うのではないか?と思う。面白半分で言ったりする、これはおかしい。人が真剣に悩んでいたり、葛藤していたりする心情を少しも考えられていない人間がそうした行動に出る。立場を変えれば同じ状況になる可能性もある、というのは少し考えれば分かるであるのにも関わらず。あるいは、本人に言ってこそ意味のある事を、第三者にあいつは~~という情報を植え付けて何になる?自分が悪口を言う奴という情報を相手に与えているだけだ。

 一般的に嫌になったら無理に付き合う必要も無く離れる。当然だ。仮に誰かを魅力的に感じたとして、嫌な面を知ってしまえば、人は学習し、陰口を叩く。そういう人間は少なからずいる。だから、僕は嫌な面まで全て腹を割って話せる友人など限られいるし、悪口に花を咲かせる奴などには、嫌な面など決して言わないし見せたいとは思わない。もちろん失敗した事もある。自分が誰でも良いから喋りたいというが珍しくあったし、そうした相手が悪いのでは無く、自分が相手の本質を見抜けなかったのが悪い。という学習を何度もした。

 しかし、嫌な面・ダメな所を無くしていく自分を築きたいし、人なんて変わってなんぼと思っている。自分を規定してしまったら人間の成長は止まる。故に、相手の事も規定などしない。本当に救えない場合以外、あいつはこうだから~~~、というくだらない観念の持ち主にはなりたくない。繰り返すが、ふとしたきっかけで人は良い方向にも悪い方向にも変わる。このように考える自分は、意外と教職者に向いているのかもしれないが現実的に無理だ。自分の当面の問題点あるので、改善していきたい。以上。