外の世界に出るまで、それが当たり前だと思っていた。
幼い頃の薄れた記憶の中に、母に愛されていたというのは無い。
微笑みかけられたことも、触れられたことも、抱きしめられた記憶さえ皆無だった。
それが私の世界では『普通』のこと。
だから、始めて外に出て自分と同じく位の子供が両親と手を繋いで歩いている姿を見て、訳のわからない感情に押しつぶされそうになった。
母の眼、触れない手、呼ばれない名前、その時知った『愛されていない』ということを。
母だけではなく、祖父母もその周りにいた大人全てが、私の存在を否定していた。
でもあの人たちだけは違ったから、私を受け入れてくれたから、心は壊れなかった。
始めてあったときは、渋面で低い声をしたぶっきらぼうな挨拶をした男の人。
その横でにっこりと微笑んだふくよかな女の人。
私の名前を呼んで、頭を優しく撫でてくれた無骨な手と、柔らかな手。
あの濁った世界から救ってくれた、とても大切な人たち。
久遠くんとキョーコちゃんの日常《登校編》
「もう、ちゃんとパジャマを着て寝てよね!」
「気をつけるけど、こうも暑いと…」
幼馴染の久遠を起こす際にハプニングはあったものの、朝食を食べ終えると学校へ行く準備のために一旦家へと戻る。
先程の上半身裸の姿が頭から離れず、数歩先を歩く私の後ろで久遠は困った声で答えた。
「ちょっと待ってて。―――ただいま」
「おはようございます。大将、女将さん」
「おはよう。クオン君」
にっこりと微笑みながら久遠に挨拶を返す養母を横目に私は階段を駆け上る。
既に準備してあった鞄を持って降りると、久遠が私のお弁当を片手に待っていた。
それを受け取って鞄に詰めると、養父が久遠を見て今日の予定を聞く。
「今日は早く帰ってこれるんだろうな」
「はい。生徒会も昨日までに粗方片付いてるし、父さんと母さんが帰国しますからね」
「そうか。なら今日の夕飯はこっちで用意しておく」
「お願いします。じゃあ、行こうか」
「お養父さん、お養母さん、行ってきます!」
「行ってらっしゃい」
「気をつけるんだぞ」
養父母の声に笑顔で頷くと、玄関を閉めて学校へと向かう。
徒歩20分程の道のりで、最初は時間短縮のために自転車で登校しようと考えていたけれど何故か久遠に止められた。
理由を聞いても「危ないから」の一点張りで、結局押し切られて徒歩になった。
しかも登校は必ず久遠と一緒。下校はさすがに久遠も生徒会があるから無理だけどない日は、下校も一緒。
小学校、中学校、高校と登下校は久遠と、というのが当たり前の日常。
ただそれが一度崩れそうになったことがある。
アレは久遠が5年生で私が4年生の時だった。
その日は久遠は家の用事で早退していて、一人で下校しているときのこと。
いきなり知らない女の子数人に囲まれて、久遠に関してアレコレと言われたが『年下の癖にクオン君と登下校なんて生意気よ』というのが無駄な罵詈雑言を省いた結果だった。
あまつさえ私を突き飛ばし、ランドセルの重みもあって後ろに倒れこんで無理に体勢を整えようとし両の掌を擦りむいてしまった。
帰り道にある公園の水道で汚れは落としたけど、思ったより酷い擦り傷で家に帰ってから養母を心配させた。
転んだといったけれど、どこか納得していない様子で、何かあったら相談するようにと言われた。
次の日、怪我をしたこともあり、久遠の起床を養母に頼んで一足先に登校して、下校も久遠が教室に迎えに来る前に走って門を出た。
門を出てから少しだけ振り返ると、遠目に私の下駄箱を確認している久遠が見えて、その周りには昨日の女の子達。
このままでは追いつかれると思い、慌てていつもとは違う道を通り、かなり遠回りをして帰宅すると玄関の前には久遠の姿。
まだ私には気付いていないようだったので、こっそり玄関からではなく家の裏に回って店の裏口から家に入った。
夜は気分が悪いといって鍵をかけ部屋に閉じこもる、というのを3日続け、怪我も瘡蓋になりもう少しで治るというところで満面の笑みを浮べる久遠に捕まってしまった。
あの時の久遠は、本気で怖かった。
笑顔なのに、背後にどす黒い何かを背負っていて有無を言わさず3日間避けたことと怪我の理由を問われ、はぐらかすことは許されず、結局洗い浚い話すと今度は悲痛な顔をして「ごめんね」と久遠が謝る。
その頃の私はどうして久遠が謝るのか分からなかった。
だって女の子達が言うように、久遠と登下校していた私が悪いのであって久遠は悪くないのに、と思っていたから。
そもそもその思考に至ること事態が間違いなのだと、私は久遠だけでなく養父母はては久遠の両親にも懇々と説明され、久遠は久遠で養父とクーパパに、女の子一人守れないなんて男として駄目すぎると苦手な正座をさせられて怒られていた。
こうして登下校事件(親友のモー子さん命名)以降、久遠が裏から色々と手を回したようで集団で囲まれて文句を言われることはなかった。
その時のことを、久遠と一番親しい倖一さんに聞いても引き攣った笑顔ではぐらかされ、モー子さんも何か知ってるようで問い詰めても「聞かない方が幸せよ」と逆に諭されてしまう始末。
当の本人である久遠は「キョーコが気にする必要はないよ」と笑顔で釘らしきものを刺された。
歳を重ねて、あの出来事の発端である女の子の気持ちを理解するにつれ、隣を歩く幼馴染に頭を痛めることになるとは…。
初めてあったときは、物語に出てくる王子様そのもので見惚れてしまい、恥ずかしくなって養父の後ろに隠れてしまった。
金色の髪に碧色の瞳。可愛いとか、格好好いとかよりも、ただ綺麗だった。
幼い頃でもそうなのだから、歳を重ねればどう成長するかなんて久遠の両親をみれば一目瞭然。
思春期の女の子は皆、久遠に恋をするのは自然の摂理にさえ思えてしまう。
そして現状、久遠の一番近くにいる私に嫉妬等の負の感情を乗せた視線が向けられ、地味に胃が痛む日々。
小中学校と何とか無事に学校生活を送ることが出来たが、今年入学した高校はどうなるか分からない。
入学して1ヶ月経ち、表立って何か言われることはまだないけど、日に日に向けられる視線がきつくなっているのは気のせいだと思いたい。
学校が近付くにつれて、広がるざわめき。
元凶である久遠は、周りのことなど気にせずに私に話しかけ、私も内心では頬を引き攣らせながら何とか笑顔で相槌を打つ。
こうして、私の学校生活の一日が始まるのです。