ふわり、と緩やかに通り過ぎた風。
それが気まぐれに運んだ香りに、思考の全てを支配された。
(………かなり、やばいかもしれない)
腕を伸ばせば触れることの出来る距離。
きっと今いる場所が自身の部屋ならば躊躇いもなく腕を伸ばしている。
柔らかく、それでいて華奢な身体を抱きしめて彼女の温もりに安堵していたかもしれない。
彼の彼女に関する思考について
抱きしめて、それから先のことを考えると鼓動がワンテンポ速くなった気がした。
(落ち着け、俺!)
左手でグッと拳を握り、ゆっくりと深呼吸をする。
ちらりと前を見ると、髪をさらりと耳にかける彼女の姿が目に入った。
視線はノートへと向けられ、わずかながら眉間に皺がよっているようにみえる。
(そういえば、期末試験が近いって言ってたっけ)
ただでさえ、未緒やナツの演技が認められて単発ドラマにバラエティと徐々に仕事が増えていた。
高校は芸能科で、融通がきくはずなのに出来る限り出席しようとする姿勢は好ましい。
しかし、今は控え室に2人っきりなのに彼女と会話がないのは寂しかった。
折角、社さんが気を利かせてくれたのに…。
いつまで経っても俺に向けられない視線をどうにかしたい。
けれど大人としての理性が、彼女の勉強を邪魔をしてはいけないと言うが、男としての欲望がそれを粉砕してしまいそうだ。
邪念を振り払うように眼を閉じて、それからゆっくり開くと手に持った台本へと視線を落とす。
視界に彼女がいれば、欲望が勝ってしまう。
だから、無理矢理にでも視線を外しているのになぜだろう、身体が彼女の存在をヒシヒシと感じている。
聴覚が彼女の息遣いを。嗅覚が彼女の香りを。
(もう限界だ)
傍にいるのに、愛しい彼女を見つめることが出来ないなんてどんな拷問だろうか。
大人の余裕なんて、そんなもの彼女の前ではないにも等しい。
今の俺は、彼女の行動に一喜一憂する憐れな男でしかないのだ。
勉強の邪魔だとか、うだうだとしていてどうする。
何なら勉強を中断させてしまった分だけ、家庭教師を申し出ればいい。
彼女が家庭教師の話に恐縮しても、お礼と称して夕食を作ってくれるようにすれば頷くだろう。
(そうだ。それがいい)
うっすらと口許に浮かぶ笑み。
そのまま彼女へと視線を向けて、呼びかける。
「最上さん。そろそろ休憩しない? あんまり根を詰めるとよくないよ」
「えっ。そんなに時間経ってました?」
「どうだろう。時間はちゃんと見てないから…」
本当は20分ぐらいしか経っていないが、そんなことを悟られないように話題を摩り替える。
「一息ついたら、台詞あわせしようか。そろそろ呼ばれるかもしれないし」
「そうですね。じゃあ、お茶を入れるので少しお待ちください」
その言葉に頷くと、彼女は席を立って簡易のキッチンでお茶の準備を始めた。
テキパキと作業をする後姿を見つめながら、この後どうやって彼女を家に招くか思考を巡らせる。
家に招いて、彼女の手料理を食べて、勉強をみてあげて、それから―――。
(―――今度の撮りで抱擁のラブシーンがあるから、彼女に相手役を演じてもらおう)
そうすれば、思う存分あの華奢な身体を抱きしめることができる。
勉強は横に座れば、偶然を装って触れることも可能だ。
家に帰った後のことを考えると、知らないうちに笑みが浮かんでいたようで、お茶を入れ終えた彼女が振り向くと小首を傾げて「どうかしましたか?」と聞いてくる。
「何でもないよ。お茶、ありがとう」
「いえ、茶菓子もあったので少しでもいいから食べて下さい」
甘くないから大丈夫ですよ、と言ってふわりと微笑む彼女。
(ああ、そんな顔しちゃ駄目だよ)
俺の前だけならいいけれど、あれは無自覚の笑顔だからきっと他の人間にだって向けているんだ。
叶うなら、彼女を閉じ込めて俺しか見ないようにしたいとか、痛々しい考えが浮かんでしまう。
愛しい彼女の前では、世間で言われている『紳士な敦賀蓮』が、頭の中では人様に見せられないようなことを考えているんだから。
何気ない会話の中でも、少しずつ距離を詰めて追い込んで逃げ道は塞いでいく。
最後は俺の手をとるしかないところまで、悟らせずにゆっくりと時間を掛けて。
―――――必ず捕まえるから。