プロの小説家さんは、恩師である眉村卓先生しか存じ上げないので、よくわからない。
眉村先生は、それは素晴らしいかただと思う。
第一に、このうえなくおやさしい。
しかしそれだけではない。
ご一緒していても笑っておられても、
「本当はこの会話をとおして何を感じ取っておられるのだろう?」
と……はやりのことばで言うと「忖度」をせずにはいられない、でもこれもわたしの勘繰りすぎなのかもしれないけれど……すご味を感じることがあり、いつまで経っても先生とお話をするときには緊張する。
わたしは眉村先生のことしか知らないので、ほかのプロの小説家のかたが、日ごろどのようにされていて、どのようなかたなのかは、とても想像できない。
最近、疑問に思うことがある。
ある作品を読んだ。プロではないかたのものだが、確かに上手い。
扱っている題材も社会的に広く問題視されていることで、そういう所に目を向けて描こうとすることはいいことなんだと思う。
なのに、素直にそう思わせない所がある。
具体的にどういうことかというと、
「こんな立派なことをしようとしている人(登場人物)が、こういう表現を用いて考えごとをするだろうか?」
という、表現とモチーフとの大きなズレ、「違和感」。これまでいろんな人のものを読んできたけれど、こんなことを感じたのは初めてだ。
わたしはその作品と、それを書いた人について、このところよく無意識のうちに思いを馳せていた。間違っても恋ではない。
思うにその人は、ご自身でご自身の本来の姿をご存じないのではないか、という仮説に至っている。
なので、扱う題材がいくら立派なものでも、正直なところ、あまり立派ではない本性が、透けて見えている、ということなのではないか、と。
わたしは、
「文は人なり」
ということばを信じている。
昔あるかたから、
「小説を書くってスゴいことですね。わたしはようしません。だって、小説を書くためには、自分のいい所だけでなく悪い所まで認めてそれをさらけ出すってことでしょう? そんな度胸はわたしにはありません」
というようなことを言われたことがある。
が、「わたしはようしません」と言われたそのかたのおっしゃることが、ものを書く人間のあるべき姿を言い当てているように思えるのだ。
眉村先生の作品は、ご自身を存じ上げているわたしなどが拝読すると、
「何をご謙遜を!」
と驚くことがあるほど、ご自身の欠点を登場人物の短所としてさらけ出されている(これも上手くわたしが先生に騙されているだけかもしれないけれど)。
わたしの作品は、どうなんだろう?
眉村先生以外のプロのかたには、自分のいい部分だけを上手く演じて、人を感動させるものを書いている人もいるんだろうか?
よくわからない。
わたしが違和感を覚えたかたの作品に、わたしと同じ感覚をいだく人は、ほかにはいないのかもしれない。わたしの思い過ごしかもしれない。
ただわたしはこれからもより一層、以前「ようしません」と言われたかたがおっしゃられたとおり、自分を直視することをやめず、とことんいじめ抜いて、どんどん意地の悪い作品を書いていこうと思う。
たとえそれがプロへの遠回りになるとしても、やめることはできない。
愚直な生きかたしかできない、不器用な人間だから。
以上。
このブログをご覧のかたで、ものをお書きのかたがいらしたら、ご自身の執筆姿勢について、どのスタンスを貫くかのヒントになればいいなと思い、僭越ではありますが、日記では済まさず、記事に残すことにした次第です。
CHARLIE
(文頭に「わたし」が来るものが多い。今回の記事は失敗ナリ)