日々のひとひねり

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退院の翌日にリハビリの病院に行ってきた。

10月初めに診察してもらった先生にまた診てもらった。

手術の担当の先生にちょっと聞いてみたことはあったが、よくあることですと言われてて原因・理由は聞きそびれていたことを聞いてみた。

 

■手術前にしびれが無かったところにしびれが出ていたり、元々あったしびれが強くなっているように思うが、これはなんなのか?

 →今まで神経が圧迫されていたことにより感覚がマヒしてたが、圧迫が取り除かれたことで感覚が戻ってきてそういうことになる。この手術ではよくあること。

 

■右肩から上腕にかけて痛みがあるのだが、これは?

 →圧迫されていた神経の束が元に位置に戻ろうとすると、圧迫されていた部分から下の神経が引っ張られることがあり、それで痛みが出る。この手術ではよくあること。

 

この説明を聞いてすっきりした。

しびれなどが治ってくるのは数か月から年単位かかるといわれた。また完全にはしびれは消えないかもしれないともいわれた。まぁかなり神経を痛めているのはわかっているので、そのあたりは覚悟しているし、もう3年もしびれとつきあっているので去年ぐらい程度のしびれならもう気にならない。

どこかで読んだが、神経細胞は皮膚などと違って新陳代謝がかなり遅いらしい。確か2年ぐらい?治るのに年単位というのも納得できている。

 

この日はリハビリの先生がいない日だったので、別の日にリハビリの予約を取った。

ちょっと日数が空くので、自宅ではリハビリ病棟でやったようなことを自主的にやることにした。また、とてもじゃないけど仕事なんて出来る状態ではないので、しばらく休み。体力が落ちてるのはわかりきっているので、毎日30分程度散歩をすることにした。もちろん途中休みを挟まないと足が動けなくなるが。

 

 

リハビリの日。いろいろとチェックされた。やはり足腰周りは固いらしい。特にお尻とか言ってた。

手の動きについてはかなり細かく調べられた。右手の握力は22Kgまで戻っていたが、まだ常人の半分ぐらい。

箸が使えなくて困っているというといろんな指の動きをさせられて、薬指と小指のコントロールがうまくできないために箸を支えられないのだろうという結論になった。

 

何回目かのリハビリで、歩行についても、歩くことはできているがおかしいと言われた。なんでも、上半身をほとんど動かさずに歩いているのだそうだ。腕をほとんど振らず、肩で風を切るような動き、つまり腰をひねる動作がぜんぜんないのだと。

これは思い当ることがある。足にしびれが出てから長時間歩くと腰が痛くなるので、腰痛を避けるのとしびれの影響で小股でそっと歩く癖がついていた。

本来ひねられるべき腰を動かさないで歩いてるから、腰痛になるのかもしれないと言われた。

それ以来散歩のときには腰をひねることを意識している。

 

 

退院から10日ぐらいして、いつのまにか箸が使えるようになっていた。しびれに関してはあまり変わっていないように思うのだが、なにかコツをつかんだのだろう。

手のリハビリでゴルフボールを2個、手の中で回すということをやった。病院ではこれがほとんどできなかったのだが、家に帰ってすぐに手に入ったピンポン玉で練習していたら、そこそこ出来るようになってきた。

なるほど、練習が大事なのだな。

 

 

何か手を動かすことをしないとなぁと考えて、ここひと月のことをBlogに書くことにした。

キーボードもキーを押したつもりで押せてなかったりと、地味に苦労している。

とりあえず年内は仕事が出来ないだろうから、リハビリに専念する予定にしている。

まだ近所のコンビニに行くのが精いっぱいなので、1時間ぐらい連続で歩けるようになるのが目標か。

手についても苦労なくプラモデルを作れるぐらいになれるといいのだが。

 

 

おわり。

 

 

 

術後5日目。

鎮痛剤が処方された。今まで痛くなるともらいにいっていたのだが、これで飲む時間をコントロールできる。
一回飲むと6~8時間は大丈夫なのだが、寝ている時間に切れると目が覚めてしまう。これからは寝る前に飲めば痛みで目が覚めることはない。
食後食前などの制限もなく、痛いときに飲んでいいと書かれていた。
 
歩行具を使ってなるべく歩くようにとリハビリの人に言われていたので、院内をうろつく。日曜で外来病棟には誰もいないので休みをいれながら1時間ぐらいうろうろしていた。
 
日曜なので母もお見舞いに来た。

 

 

術後6日目。

喉の痛みがだいぶ引いてきて、ジュース無しでも大丈夫かもと思えるようになってきた。

それでも力まないと胃に落ちていかない感じは残っていたが、おかゆも飽きてきたので普通食に戻してもらう。

 

歩行のリハビリでは歩くことに関してはほとんど問題ないといわれ、歩行器なしでも院内を歩いていいと言われた。

まだしびれは変わりなくあるし自分ではふらついてる感じがあるのだが、慣れろという意味なのかもしれない。

手のリハビリもしびれがありつつも、思うように動かせるように訓練しているという感じだ。

相変わらず箸はうまく持てない。手術直後に比べればましにはなってきているという程度。

皮肉なことに、左手でスプーンやフォークを使うことはだいぶ慣れた。

 

執刀した先生が見えて退院をいつにするか話した。明日にでも退院できるようなこと言っていたが、リハビリの先生は数日続けたいというようなことをいっていたので、術後8日目に決まった。

首の装具ももうはずしてかまわないと言われた。それでも寝返りを打ったり歩行中に転んだりして首に負担がかかったときのことを考えて、ずっとつけていた。

 

研修の学生が来て今日で病棟の研修が終わりだときいた。明日からは別のところで研修なのだろう。

考えなしに学生さんの研修をOKしたが、私ぐらいの年齢層でOKする人は実はほとんどいないのだそうだ。7~80ぐらいの高齢の方が多いと言っていた。

なので貴重な体験をさせてもらったと感謝されてしまった。

 

夕方、シャワーを浴びた。

 

 

術後7日目。

翌日退院なのでリハビリの人と今後のことについて話した。この病院は自分の家からは微妙に交通の便が悪いので、リハビリをやっている別の病院で引き継いでもらうことにする。

院内に相談室があるのでそこで病院を探してもらう。というか、10月初めに紹介状を書いてもらった整形外科に自分ではもう決めていた。やはり紹介状とかリハビリの内容・経過の書類が必要らしく、それぞれに書いてもらうよう手配してもらった。

 

レントゲンを撮った。事前に聞かされてなく、リハビリから病棟へ帰ろうとしたときに声をかけられて撮りに行った。リハビリ病棟と入院病棟の途中にレントゲン室があるので、ちょうどよかった。

 

退院の手続きなどが書かれた書類をもらう。

執刀の先生が来て、明日の朝に抜糸をするといわれた。

 

 

術後8日目。

退院日。

朝食直後ぐらいに先生が来て抜糸をした。というか、防水のシートを剥がしただけだった。実は縫ってなくてテープで固定してあるだけなのだそうだ。もう傷口はふさがっているので、このまま入浴して大丈夫でテープが剥がれたらそのままでいいと言われた。

 

30分後ぐらいに院長先生の回診があった。よくなるまで時間がかかるからしっかりリハビリするよう言われた。

 

ナースステーションへ行って退院の書類をもらってきた。これがないと支払いができない。

保険の関係で必要な書類があるので、窓口まで行って手続きをした。その足でリハビリ病棟へ行ってリハビリの書類を受け取ってきた。

病室にはテレビと冷蔵庫があって、カードを買ってきて使えるようになっていた。テレビは見なかったが冷蔵庫は連日使っていた。

カードを入れてスイッチを押すと冷蔵庫が24時間稼働するようになっていた。なので毎日カードを買っていたが残量がよくわかっていなかった。カードが数枚あったので清算に行くと相当な金額が戻ってきた。

どうやら24時間で勝手に電源が落ちるが、またスイッチを入れればまだ使えたらしい。3000円ぐらい小銭で返ってきてしまい、パジャマの小さな胸ポケットになんとか収まったがジャラジャラいわせながら部屋に戻った。

 

母と嫁の人が来たので、費用の支払いを済ました。支払いを済ますと書類を渡されるので、それをナースステーションに持っていった。荷物をまとめてからナースステーションに声をかけると、部屋に忘れ物がないかチェックされ、特に問題もなく退院となった。

 

2週間後、診察でまた訪れることになっていた。

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

 

 

手術翌日。

 

時間の感覚がおかしくなっていて、いつだったか分からないが集中治療室から普通の病棟の個室へ移動した。

集中治療室で寝ていたベッドのまま移動した。

部屋に着くと両腕にしていた点滴は右だけになり、レンタルの寝間着から自分のパジャマに着替えた。というか自力で動けなかったので体を拭きつつ着替えさせてもらった。

集中治療室ではエコノミー症候群防止でふくらはぎにマッサージ機のようなものをつけていたが、部屋では代わりに弾性ストッキングを履くことになった。

 

朝ごはんは普通にあった。が、自力では力が入らず上半身を起こすことが出来なかった。電動ベッドだったのでなんとかなったが、麻酔の影響なのかなぁとか考えていた。

 

食事をしようとしたら、手術前にはなかったかなりのしびれが右手にあって箸を持つことが出来なかった。スプーンやフォークを時には左手で使ったりして食事した。

また、物を飲みこむときに喉がものすごく痛いということに気付いた。そしてかなり力を込めないと食べたものが喉につっかかり胃に落ちていかなかった。

 

午前中のうちに点滴が終わり、両手の針は抜かれた。

体の確認をしてみると、手術後でいきなり良くなったところはなかった。むしろ今までなかった右手の親指・人差し指にかなりのしびれが出てきて、何かと不便だった。

また右腕全体の筋力が落ちている感じがした。

 

車椅子が持ち込まれ、看護師さんに押してもらってリハビリの病棟へいき、リハビリを受ける。主に問診だったが、握力をはかったり積み木をつまんで右から左に移動するといった作業も少しした。

驚くことに、右手の握力が16Kgしかなかった。私の年齢からして45~50Kgぐらいあっていいはず。左も22Kgしかなかった。

 
 

術後2日目。

大部屋へ移動。

相変わらず喉が痛いうえに右手が使えないので食事が億劫だった。毎食後、食事をどれぐらい食べたか聞かれるので、ついでに喉が痛いのと物が飲み込みにくいということを伝えた。

傷口のチューブとカテーテルが抜かれた。

事前に買ってあった首を固定する装具を付けた。新品の装具はまっすぐで取り付けるのに看護師さんがやや手間取っていた。

歩行具を使って歩けるようになったが、トイレ以外に出歩く用事はなかった。

昼から食事がおかゆとなり、おかずも柔らかめのものだけになっていた。それでも喉の痛みはつらいものがあった。

 
リハビリ病棟は入院病棟からそこそこの距離があるのだが、歩行器を使って歩いて行った。看護師さんの付き添い付きで。
 

 

術後3日目。

昼ごはんにヤクルトの『きになる野菜 白ぶどう&ほうれん草』が出た。なぜかこれだけは喉が痛くない。お茶や水ですら飲むと痛いのに不思議だった。

嫁の人は毎日お見舞いに来てくれていたので、野菜・果物系のジュースを買ってきてもらうことにした。

食事の他に薬も飲むので、これでずいぶん楽になった。

 

足のリハビリも始まった。担当は別の人で、主にストレッチだった。あちこち硬くなっているようだ。ちょっとだけ歩行具なしで歩いてどんな様子か見られた。

 
午後早めの時間、担当の看護師さんと学生さんが来て最上階へ行きましょうと誘われた。天気が良ければ富士山がよく見えると言っていたが、霞んでいて見えなかった。まぁ違う景色を見るのはいい気晴らしになった。
 
嫁の人がお見舞いに来てから、院内のコインランドリーに行ってみた。今まで洗濯物は持って帰ってもらっていたのだけど、そんなことをするよりこの方がいいような気がした。
 

深夜1時過ぎぐらい、右の肩から上腕にかけて寝ていられないぐらいの痛みが出てきた。トイレに行くついでにナースステーションに行って鎮痛剤をもらう。

この痛みは日を追うごとに弱まっていったが、完全に消えることはなく退院後も鎮痛剤は飲み続けている。

 

 

術後4日目。

手術の傷跡に防水のシートが張られた。これでいつでもシャワーが浴びられると言われたが、いつ浴びられるのかは言われなかった。

 

リハビリは土曜日で担当の人がいなくて、別の人だった。手を使うものばかりだった。いろいろと出来ないことが多く、先が長そうだと感じる。

足のリハビリはいつもの担当の人で、ストレッチをしてから部屋の中を歩行具なしでぐるぐる歩いてばかりだった。

 

夕方、唐突にシャワーを浴びることになった。

これだけでもかなり疲労したので、体力が落ちているんだと実感した。

 

 

 
 
 
 
 
つづく。
 

入院日。

入院手続き、区役所に出す診断書の受け取り、手術のときに必要なものを病院内で買ったりと、意外にやることは多くあった。

大部屋でかわまないと希望していたのに、なぜか個室だった。後で分かったが、手術の前日と翌日は個室になるようだ。

担当となる看護師さんが挨拶にきて、学生さんが研修でついていいかと聞かれた。

この病院、隣に学校があってそこの学生さんの育成に使われているのは知っていたので、普通によくあることなんだろうとOKした。

その学生さんも後で挨拶に来た。2~3人で研修に来るのかと思ってたが一人だった。

夕方には執刀する先生も挨拶にみえた。

 

昼ご飯はあったけど、翌日に手術なので晩ご飯はなし。経口補水液を翌日までに2本飲むようなことが手術の案内に書いてあったが、普通の水を制限なしで飲んでよかった。とはいえ、ほとんど口にしなかったが。

消灯前、夜の担当という看護師さんが挨拶に来た。24時間1人が担当の訳ないものな。

21時に消灯だった。いつも深夜まで起きてるので早々眠れないだろうと思っていたが、1時間ほどで寝てた。

手術への不安なんてものはまったくなく、むしろ一刻も早く受けたいという気持ちだった。

 

 

 

手術当日。

6時ごろ目が覚めた。が、うつらうつらとまた寝ていた。

しばらくして検温と血圧を測られた。経口補水液の代わりに点滴をすることになった。

執刀医は午前と午後で手術の予定があり、私は午後だった。13時が目安だけども午前中の手術しだいで変動すると言われた。

やることもなく、前に渡されていた手術と麻酔の計画書のようなものや日程表を散々読み返していた。

学生さんが来て10分ぐらい話し込んだ。手術前の人にはこういうことをするのだろうか。

 

昼頃、執刀の先生がみえて、予定通り13時から手術といわれた。アロハのような妙に派手な半そでTシャツのようなものを着ていたので、最初は誰が来たのかと思った。下は薄緑のいかにも手術するときの格好みたいだった。

10分ほどの差で嫁の人と母が来た。立会人だ。

事前に用意してあった、浴衣のような寝間着(レンタル品)、紙おむつ、弾性ストッキング(エコノミー症候群防止)などを看護師さんに渡す。

手術室までは歩いていくと言われていたが、そろそろ時間という頃にストレッチャーが運び込まれ寝なおして手術室へ移動。

ドラマなどによくあるような自動ドアを通り過ぎた。ここからは病棟の看護師さんでも入れないようで、ちょっとした引継ぎをしていた。ストレッチャーから降りてちょっと待つ。手術担当の看護師さんが来てついていく。意外に歩いた。途中いくつも手術室があった。自動ドアからはそういう手術関係の区画なのだろう。

私が手術をする部屋に着いた。5~6人の人が世話しなく動いていた。挨拶をした気もするがはっきりと覚えていない。

パジャマを脱いで手術用のベッドに寝るように促されて寝る。ちょっと動いたら落ちそうなほど小さいなと思っているうちに落ちないようにベルトをするといわれた。同時に点滴の交換をしたり、酸素マスクをつけられたりした。

 

 

そのあたりから記憶がない。麻酔をかけると声をかけられた気もするが、今となってはあやふや。

 

看護師さんに声をかけられて目覚めたら、集中治療室にいるといわれた。一晩集中治療室で経過を見るとは言われていた。

私の受けた手術は喉仏の左横あたりを6~7cmぐらい縦に切って、食道と気道をどけて頸椎に穴を開けて、ヘルニアと骨化症の骨化した部分をとりのぞき、左腰から骨を少し取って穴を埋めて、チタンのプレートをボルトで固定するという内容だった。

いつの間にかまた寝ていたが、次に目覚めたときは嫁の人がいた。それと同時に右肩にものすごい肩こりのような痛みがあることに気付いた。体はぜんぜん身動きできなかったので肩を揉んでくれと頼んだ。少し押してくれただけですごく楽になった。が、集中治療室には立ち合いの人は15分しかいられないので、すぐに出て行ってしまった。

そのうちに肩の痛みが気になってどうしようもなく、看護師さんが様子を見に来た時に仰向けではなく体を横向きにできないかと頼んだ。すぐに体を動かしくれて毛布で支えるようにしてくれた。それだけで痛みは引いていった。

この時点で両腕に点滴、切ったところにドレンと呼ばれてるチューブが出ていること、カテーテルが挿入されていることが分かった。寝返りなんて打てない。

 

それから寝たり起きたりを何回か繰り返した。看護師さんが様子を見に来たときに時間を聞いた。

19時過ぎと言われた。最初に目が覚めてから相当時間が経ってる感覚があって、とっくに24時過ぎ、もしかすると深夜3時ぐらいかもと思っていたので、朝までまだそんなに時間があるのかと愕然とした。

思わず看護師さんに聞きなおすぐらいびっくりした。

 

その後は深く眠ることが出来ず、浅い眠りと目覚めを繰り返していた。まだ酸素マスクをしていたが、ちょっと頭を動かすと左右か下にずれるので、そればかり気にしていた。

朝までの時間がものすごく長く感じた。

 

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

10月の末から11月の頭にかけて約10日ほど入院していた。

人生における大きなイベントだと思うので、ちょっと記録しておく。

 

 

 

後縦靭帯骨化症ということは時々このBlogにも書いていたが、9月ごろにいよいよ日常生活にも支障が出始めて、手術を決意した。具体的な支障は、連続で30分も歩けないとか、手先の細かい作業がやりにくいなど。

 

 

徐々に仕事を減らして、10月初めに再検査をした。結果、骨化症の他に頸椎のヘルニアもあり、むしろこれのほうが神経への圧迫が著しいと判明。

で、直接は言われなかったが、どうやらなんでもっと早く来なかったというレベルらしく、手術を勧められた。この再検査をしてもらった病院は普通の整形外科で手術まではしていない規模であり、大きな病院へ紹介してもらった。というか、手術はもうするつもりでいて、手術をしたい病院は紹介状必須なので、そことつながりのあるこの整形外科へ行き、紹介してもらったという感じである。

 

 

翌週には大きな病院へ行き診察を受けた。すでにMRIのデータなどは渡してあったので、すんなりと話は進んだ。

圧迫されている神経の60%ぐらい死んでるとかいわれた。手術をしても完全に元通りにはならない可能性が高いが、これ以上放っておくこともできないと、やはり早急な手術を勧められた。手術をする意思を伝えるとその場ですぐに手術室の空いてる最短の日を確保してくれた。

診察を受けた日から約3週間先だった。

手術前の検診ということで、その日のうちに採血やらレントゲンやら心電図、肺活量、採尿などを行った。

骨化症とは別に、以前ひどい眩暈になって近所の内科で診てもらって、血圧が高めということでずっといくつか薬を飲んでいたのだが、その薬の中に血をサラサラにするという効果の物があり、これが傷を治りにくくするという副作用もあって、手術をするにあたり問題となるらしかった。

翌日に近所の内科に薬を止めても問題ないかという質問状を持っていって、その返事をまた持っていくということもやったりで、非常にばたばたしていた。

結果的にはその薬は高血圧ではなく、狭心症の傾向もあったので予防という意味合いで出されていたので、止めてもOKだった。

 

その次の週、MRI、CTを撮った。

数日後、全身麻酔に関する説明を受け、さらに入院についての説明を受けた。その時に高額医療に関する制度と難病に関する制度について話を聞いた。

この話を聞いたのがたしか木曜で、翌週の月曜から入院なので区役所が業務をやっている木・金のうちに手続きを済ます必要があり、急いで区役所へ行き書類をもらった。難病の制度の申請には診断書も必要で、普通は数週間かかるようなのだが、看護師さんが手を尽くしてくれて数日でもらえるようにしてくれた。

 

 

手術をする病院で診察してもらった翌日からは、ぽつぽつと入院に向けての準備をし始めた。

この病院は母も入院したことがあり、そのときの入院のパンフレットもまだあり、必要なものを買い揃えるのに助かった。

診察から入院まで3週間という時間があったので、ちょくちょく病院へ行かなければならない日があったのにかかわらず、準備はばっちりだった。

 

 

つづく。