直接的な交流がなくても、人って赤の他人から少なからずの影響を受けて生きていると思うのです。
単調で退屈な毎日のように見えるけど。
一度として同じ時間はないわけですよね。
こつこつと積み重ねて、より濃厚な彩りになってしまったが故に、色味を感じなくなってしまった空間であるだけで、少し視線をずらせば、また鮮明なシーンが、凝視が生んだ補色の残像とともに見えてきます。
それは例えば毎朝同じ時刻の同じ車両で居合せる誰か。
視線を挙げた際、たまたま飛び込んできた文庫本の背表紙から、其の方の嗜好を垣間見て、ある種のシンパシーを感じたりして勝手に身近に思っていたりして。
ところがある日、その人の姿が電車から消えてしまったら。。。
たまたま体調を崩したのだろうか?
乗り込む車両をずらしたのだろうか?
仕事が変わって時刻がズレたのだろうか?
何か並々ならないことがあったのだろうか?
などと、知る由もないドラマを書いては丸めてゴミ箱に棄てる。
いつの間にかその人は私の日常に居なくてはならない存在になっていて、満員電車にポッカリと空いてしまった穴に気づかされるのです。
でも、その穴も暫くすると、ジワジワとアメーバのように流動的に、また元の形に向かってはたらき出し、最終的には何事もなかったかのように時間が進んでいくのです。
つくづく人間は一人では生きてはいけないのだなと思います。
此処まで書いて、どなたのことを思いながらのセンチメンタルな日記なのかはお察しがつくかと思いますが。
元気でいるときには、元気でいてくれることが当たり前で、そこまで深刻に注意が注がれていなかったとしても、やはり昨日いたあの人が、この空間からいなくなるということは、直接関係のない人々の日常を掻き乱すことなのだなと思いました。
私が惰性を働いてしまった6月22日という日を、罪深く感じましたし、差し上げたかった。
でもそれは違いますね。
きっと日本中の方が、彼女のために差し出したかった時間は、彼女の人生のゆうに倍以上にのぼるかと思うのですが、万物の理からははずれた安直な気持ちに過ぎず。
其々がもぎり取られた日常を、再生に向かって淡々と。
また前を見据えて進む糧にしていくしかないのでしょうね。
私と同じ年齢だった小林麻央さん、心からご冥福をお祈り申し上げます。
