父が柿の木の代わりに植えた榊も一段と大きくなる。


祖母が植えた柿木は大きくなりすぎて家より高く、年取った父が登って柿をとるので切ってしまいました。


みんな大きな木は土台を守るという父の考えで大事したのです。


木造建築で大正4年に建てられた家でもちろん下の土は呼吸している生きて土。


石垣は古いが頑丈。


父と母は白蛇が住んでいると私をからかいます。


今日は雑草を刈るが、どうしても取れない野草があった。


紅葉が石の間から目を出す。


新しい世代の紅葉なのだろう。


親紅葉は門の門紅葉になって家を支えています。










家内とお盆の提灯を忘れていました。


大掃除をしていたからです。


お盆にはお寺さんが来て供養をします。


東京は7月13日が入りです。


やっと完成、今年は電気も入りました。


父と母のお盆提灯が揃うのは久しぶり。




父は定年から、毎年ジャングルに戦友の遺族を連れて遺骨を拾いに行く。


慰霊団は各地で慰霊の塔を建てた。


南は硫黄島から極北の地まで広がっている。




父はまだ南方で最後は補給はなかったが、果物があったからよかったという。


だが青いバナナは渋くておいしいとは言えないといっていた。


マッカーサーの真似かパイプをいつもくわえていた。















父が書いた随筆と詩集を何年も探していた。


書いているときにはワープロの時代、相談に乗りつつ父の原稿を推敲して発表するという約束だった。



それは大戦末期志願して祖母の家の最後の夕食から父は書き出し、


ジャングルの秘密任務の飛行場設営から艦砲射撃でジャングルで戦争が終わったのを


信ぜず戦った記録を短歌、俳句にしたもの。




子どもの私でも悲しくて、はじめて 数ページ読んで涙して読めませんでした。


今回、


母が仏壇にしまってあったのを発見。



この夏何とか終戦記念日までに眼を通すつもりです。


たくさんの戦争関係の資料と本は保管してくれる資料館が見つかりました。



父の書いたものは感熱紙、消えそうで一刻を争うことのなりました。


この難しい時期に公表は考えものと思っています。


体験者はこの時代を語らないし、


父の戦場への思いは20代前の強烈な体験なのでしょう。


いつまでも特攻で散った仲間と生き残った自分のはざまで戦っていました。


物心つくと祭日は父は玄関に必ず日の丸の旗をあげ、家にいました。


学生時代は困りました。


仲間がよく遊びに来たので右翼かと思うのです。


ずいぶん経って、父のその行為の意味が分かりました。


部隊は全滅したが自分がいる。


きっと父のように生き残った戦友がいると祈る気持ちで祭日に日の丸をあげて待ったのです。


嘘のようなホントの話。


定年の前の年に、生き残った戦友が訪ねてきました。


父はもう子供のように涙して、抱き合って喜びました。


可愛がってくれた上官といいます、遠く北陸からだそうです。


やはり、定年を迎えてやっと念願の戦友探しに来たそうです。


じっと日の丸をたて待つ父。


思いがかなった二人は激戦の地に毎年、今度はジェットで向かうようになりました。


私には今この年になって父の気持ちがよくわかるようになりました。


この時期父は第二の青春を生きたと思います。


母と私はそんな父を応援しました。


指先一本で、アルファベットは最後まで使わず、短歌の会の事務局の仕事も最後までやり続けました。


人間初めと終わりが大切と最後の言葉でした。






最後の慰霊際の写真、戦友の方が送ってくれました。


父が同じ歳なのに若く見えます。


二人とも75歳です。


おしゃれな父でした。


このお年でジャングルで洪水に会い、


ジープが駄目で二人は歩いて山を越えたそうです。


どこのそんな力があるのでしょう?