今日は家内は生け花の全国大会で、久しぶりの東北に行く。


新幹線だが初めての東北新幹線に大騒ぎを二人でしている。








生徒さんたちにお花をやっている方が多く、今日は説明はほどほどにして、


難しい六月の花入れ、


篭に挑戦してもらう。


眞行草の花器と敷板の区別を説明はしたが、花篭がどおして敷板がいらないかを納得してもらうには、


最初から説明するしかなかった。


花台は水に濡らしておく。


花入れはなかなか花所望用のものが見つからなくて、


やむなく代用のものにした。


細かく言わず、


時代の古いものが真、唐金とその写しの磁器のものが真塗りの矢筈板を使う。


行は釉のかかった陶器のもので、敷板は蛤の板で同じく真塗り。


一番草が変化があり、わかりずらいのである。


草がある意味で、一番現代に近いのである。


だがこれは規則で縛るものではない。


あくまで季節とお花によって、臨機応変なものなのである。








花は下にしては裏からよく水をかけて洗う。


綺麗にお掃除して、


それぞれある程度長さも図り準備する。


花水次と花小刀も用意する。


花小刀は今回よく研いでおいた。


めったに使わないが、


万一という時に錆びていたりして切れなかったら困る。


床の間の前では花ばさみは使わない。


元来茶花はためたり、切ったりしないでそのまま使うのである。


山から切る時に、もう長さも花器も決めてあるはずなのである。


茶花はそれ故活けるといわないで挿すという。


まさに立花のルーツと同じなのである。


篭も野の花を摘んできてかごに入れたものを、そのまま自然に床の間に置いて茶花にした利休さんの思いに近づこうとしたわけである。


それで軸も鵬雲斎家元の無事是貴人を初めてかけた。


そのお軸から若いときから見てきたお家元の字とは違う無作為の心を感じた。


私も何もないときに、こんな立派なお軸を掛けさせてもらうのは初めてである。


今月の新聞のお家元の記事を読み、


これでよかったのだと一人納得する。