DISCO SYSTEM - スチャダラパー
ま、いいけど。
というわけで、スチャダラのシングルを買ったわけだが。シングルのCDを買うことは滅多にないのだが、なんとなくタイミングで買ってしまった。
スチャダラは若い頃から好きで、ほとんどのアルバムを買っている。スチャダラはボーズとアニのキャラクターも素晴らしいが、なによりもトラックが秀逸だ。ズドンと腰に来るビートに、計算されたネタ使い、適度なエレクトロ具合が混じり合って、何より気持ちいいグルーブを生んでいる。聞けば聞くほど味が出てくる、そんな音だ。
スチャダラが出てきた時、こういう音が日本のヒップホップのメインストリームになるのかと思ってた。四街道ネイチャーなどのLBネイション(だっけ?)がもっと活躍するものだと思ってた。けど、実際には「DA・YO・NE」みたいな陳腐なポップが流行り、ハードコアっぽいのに移り、またくだらないポップが流行るみたいな状況になっている。ま、メインストリームなんてどうでもいいんだが。
さて、今回のシングルだが、レコード会社を移籍したとかも影響してか、これまでのスチャダラの音から大きく変わっている。というより、電気グルーブと共同で出したアルバムの延長上のタイトル通りのディスコな音だ。たぶん賛否両論だけど僕の中でも賛否両論だ。評価が難しい。ありっちゃ、ありかな。
次のアルバムいつ出るのかな。フィッシュマンズを聞きながら気長に待っておこう。
うわ。こんなこと書いてたら、今日スチャダラTV出るの発見した。公式HP見てたらBBSに載ってた。夜中だからビデオでも撮っておこうかな。夏の夜にスチャダラパーはいいね。
うわー、今日じゃなくて昨日だった。ひでー。見逃したー。知らなければよかった。
祭りの後と祭りの前
別に馬鹿にしたり差別したりしているわけでもなく、僕が分裂病になっているというわけでもない。「分裂病的なもの」に強く惹かれるのだ。
それは僕が分裂病親和的だということとも関係している。よく人間を「分裂病的なタイプ」、「躁鬱病的なタイプ」、「てんかん気質」に分類することがあるが、僕は確実に分裂病的なタイプに当てはまる(この分類が適切なものかどうかはわからないし、そもそも人間を分類することに違和感があるが)。分裂病の症状を見ていくと自分にも当てはまることが多々ある。軽く離人症的な感覚を覚えたりすることもある。たぶん発症はしていないとは思うが。こういうのはどこからどこまでが病気だかはっきりしないものだ。苦しんでいるかいないかで判断するしかないのだと思うのだが、僕はそれほど苦しんでいないので発症していないのだろう。
木村敏の精神病と時間との関係は非常に面白い。彼は分裂病的な時間を「アンテ・フェストゥム型」、躁鬱病的な時間を「ポスト・フェストゥム型」、てんかん的な時間を「イントラ・フェストゥム型」と分類した。
詳しいことは専門家の議論に任せるとして、ここでは簡単に説明すると、アンテ・フェストゥムとは祭りの前を意味し、分裂病患者は常に未来の祭りを先取りしたような意識を抱いているということ。逆にポスト・フェストゥムはいわば「後の祭り」で、躁鬱病患者は常に過去の祭りを後悔しているという意識を抱いているということである(イントラ・フェストゥムは祭りの最中)。つまり分裂病的な時間は「未来志向」で、躁鬱病的な時間は「過去志向」ということだ。
時間感覚が違うということは必然的に空間感覚も違うということをも意味する。人間は常になんらかの役割を演じている。しかし、その役割が自分のアイデンティティと著しく異なるときには、その役割を全うすることを拒否しようとする。「本当の自分」はこんな役割ではないと考える。つまり役割との「距離」を取ろうとする。この距離をゴフマンは「役割距離」と呼んだ。
分裂病親和的な人はこの距離感覚が大きい。常に自分は現在いる空間にふさわしくないのではないかという感覚を抱く。逆に躁鬱病親和的な人は役割に固執し、役割との同一感に苦しむ。
80年代以降、ポスト構造主義周辺では現代は躁鬱病的な(もしくはパラノイア的な)時代から分裂病的な時代へと移り変わってきているという議論が盛んだった。しかし、僕のいるサラリーマン社会は相変わらず躁鬱病的な社会だ。優秀なサラリーマンであるということは優秀なサラリーマンを演ずるということに他ならない。何の違和感もなくサラリーマンを演ずることが「デキる」サラリーマンの条件だ。就職試験という儀式でこのことは徹底的に鍛えられる。うまくサラリーマンを演じることを覚えた人が良いサラリーマン(有名企業のサラリーマン)になることができる。
良いサラリーマンが集まっている企業は当然のことながら、過去志向だ。過去の栄光に囚われていて、徹底的に前例主義だ。前例主義は最近かなり批判されているが、世間で一流と言われている会社ほど前例主義が強い。僕の取引先である某一流大企業は偏執狂的な前例主義で、冒険することを徹底的に嫌がる。他社のフォロワーにしかなることができない。
僕の会社はしがない中小企業なので、そんな躁鬱病的でもないが(上の世代にいけばいくほど躁鬱病的になってくるが)、取引先はかなり躁鬱病的な企業なので、分裂病的な僕は非常にやりにくい。というか、サラリーマン社会は躁鬱病的なので、向いていない。「本当の自分はこんなとこにいるわけではない」みたいな青臭いことは考えないけど、うまくサラリーマンを演じきれない自分がいる。時間感覚についても同様で、「なんでそんな『常識』に囚われているの?」とか「なんで以前あったことにクヨクヨしているの?」、「また同じことやるの?」って思うことだらけだ。僕は後先考えずに適当な理論をぶちまけて、飽きたらすぐ投げ出してしまうという無責任タイプ。たぶん周りは結構迷惑に思ってると思う。
どうであれ、分裂病親和的な僕はサラリーマンに向いていない。向いていないって思っている時点で既に向いていない。でも、40歳過ぎてリストラされ過去の役割との同一感で苦しみ、アノミー状態に陥ってしまうような典型的なサラリーマンよりはいいかなって思う。リストラされたら、それはそれでショックだが、別の仕事探そうって思って、逆にちょっとワクワクするような気がする。そんな僕は明日もサラリーマンとの距離を感じながらサラリーマンを演じるフリをしながら、ネットで分裂病について調べているだろう。
フィッシュマンズ2
- Fishmans
- 空中 ベスト・オブ・フィッシュマンズ
以前書いた通り、フィッシュマンズのもう一つのベストアルバム空中を買った。
こっちの方もかなりいいですね。
宇宙が夜って感じなら、空中は昼。
空を飛べそうになる。
関係ないけど、スカパラのドラムの人って
フィッシュマンズの人だったんだね。
全然知らなかった。
スカパラの新しいアルバム「WILD PEACE」についてたDVDでは
ドラムの人の笑顔が非常に印象的だった。
彼は絶対いい奴だ。
そう思わせるような笑顔だった。
かなり類い希なる才能だ。
かなりうらやましい
村上春樹という空間
なんで急に村上春樹を読みたくなったかというと、よくわからない。村上春樹を読む前にとある精神医学の本を読んでいて、村上春樹を読みたくなったことは確かだが、それ以前に村上春樹を読みたくなっていた。
決定的な要因は最近あった些細な出来事たちだと思う。僕は客観的には些細でも、主観的には非常に重大な悩みを抱えていた。それに加えて、客観的にも主観的にも些細なイヤなことが続いて、少々凹んでいた。というか、まだ凹んでたりする。そこに村上春樹という「逃げ場」を見つけたのだ。
僕は村上春樹の本をこれまで一度も読んだことはなかった。正確に言うと、避けていた。僕は小説自体あまり読まないのだが、いくつかの小説は読んでいたし、読みたいって思う本は多々あった。もちろん村上春樹も読みたいって思う本の候補ではあった。でも読まなかった。これはタイミングの問題だ。たまたま小説を読みたいって思っていた時に村上春樹のことが思い浮かばなかっただけだ。しかし、それが重なっていくと村上春樹を避けるようになった。ただタイミングが合わなかったという理由で。
そういうわけで村上春樹は避けるべき神聖な存在となった。別に村上春樹だけが特別にそういう存在ではない。音楽ではボブディランやローリングストーンズもそういう存在だ。子供の頃よく行っていて、ずっと行っていなかった近所の海辺もそういう存在。それは村上春樹の本や、ボブディランのレコードのような「モノ」ではなく、海辺のような「空間」といった方がしっくりくる。
このような空間は神聖な存在と書いたが、畏怖すべき存在というわけではない。むしろ安らぎのための空間なのだ。現実につらいことがあった時のための想像上の安らぎの空間。現実からの逃げ場なのだ。
おそらく子供の頃からこういう空間を持っていたと思うのだが、強くこの空間について意識したのはイギリスにいたときだ。イギリスでは文字通り死ぬほど勉強した。1日中勉強した。そうしなくてはついていくことすらできなかったからだ。
そういう環境では当然のように精神が病んでくる。その時、口癖のように言っていた独り言が「日本に帰りたい」だ。
当時、卒業もしなくて日本に帰ったら今以上につらい日々が待っているのは明らかだった。そして、イギリスに行く前から日本に安らぎの場所なんてないってわかっていた。でも僕は「日本」を求めた。それは現実の「日本」という場所とは違う、辛い生活から解放される想像上の「日本」という空間だ。もちろんそんな空間はどこにも存在しない。しかし、その「日本」を常に逃げ場として意識していることによって、精神の均衡を保つことができた。僕にとっての「日本」はそういう存在だった。
このような空間でもっと象徴的で、もっとわかりやすい空間がある。それは「死」だ。
僕は常日頃から「死にたい」ってよく思う。別に精神は病んでいない(と思う)し、本気で死にたいというわけではない。僕にとって「死」は現実からの「逃げ場」なのだ。全てをほっぽり出して、これまでの出来事と連続性のかけらもない何もない安らぎの空間に行く。それが僕にとっての「死ぬ」ということで、その安らぎの空間が「死」なのだ。もちろん「死」はそういう空間かどうかはわからないし、そうである確率は非常に低い。だから実際には死なない。ただ、横に「死」という安らぎの空間を意識しているだけだ。そうすることで精神の均衡を保っている。本気で自殺しようとする人は、こんな理由では死なないと思う。もっと切実な問題をもって死ぬのだと思う。だが、リストカットする人はかなり近い心情なのではないだろうか。現実を生きるために、死と隣り合わせになる状況を作り、生きていることを確認する。それが死ぬ確率は非常に低いってわかっているのにリストカットをする理由かなと思う。
実は宗教やナショナリズムも人のこういう「逃げ場」を求める精神から生まれてきたのではないかと考えることがある。自分の精神を安定させるための逃げ場。それが神であったり、国家であったりするのではないだろうか。間違っても、自分が理解できない自然災害の理由を説明するために神は生まれたとか、論理的に国家を尊ぶことが自分にとって重要だからナショナリズムが生まれたと考えるよりかはずっと自然だ。
僕にとって村上春樹もそのような逃げ場である想像上の空間だった。そしてそういう空間を消費した。そして村上春樹は既にそういう空間ではなくなった。しかし、なくなったこと自体、大きな問題ではない。また別の空間を創造すればいいだけだ。それは単なる想像上の空間だからだ。
公的領域と私的領域の境界
しかし、絶対にブログに書くことはできない。
こんな誰も読んでいなくて、僕の正体がわかるわけがないほどの情報しか提供していなくてもだ。
客観的に考えると、たぶん悩みはごく一般的すぎるくらい一般的で、些細すぎるくらい些細なものだ。
でも書くことは出きない。
正確には、自分の考えを文字化することに対して異常なまでの嫌悪感があるのだ。
この話題は僕の私的領域に当たるものなんだと思う。
つまり自分の存在理由=アイデンティティと深く関わることだ。
言い換えると、コンプレックスなんだと思う。
たぶんこういうことは誰にでもある問題なんだと思う。
でも、僕の場合は変なところにえらい高い壁があるのだ。
多くの人に対して話すことができる「公的な領域」と
自分の中だけに取っておきたい「私的な領域」の境が
人と違うところにあり、しかも私的領域を取り囲む「壁」が異様に高いのだ。
僕の私的領域は今悩んでいることだけではなく
いたるところに存在する。
このことはいつも大きな問題を引き起こしてきた。
周りで盛り上がっている話題についていけない。
正確には参加する勇気がない。
よって孤立する。
孤立する方が心地いいのだ。
別に友達がいなかったわけではない。
集団内でいつも強い孤独を感じていたのだ。
これはいつから始まったんだろう。
おそらく自我の目覚めとともにはじまって
顕在化したのは小学校4,5年生くらいのころだろう。
ハンナ・アーレントによると、近代になり公的空間が私的空間に取って代われてきているという。
もちろん日本では公的空間の意味合いが欧米と大きく異なる。
しかし、近代的な私的空間が拡大してきていることは欧米と同様だ。
ポストモダニティ(あるいはハイモダニティ)の時代に入り、
私的空間の拡大はさらに進んでいる。
現代では私的空間こそが公的な空間であり、
私的な部分は公的な空間での記号のみとなっている。
大塚英志は面白いことを言っている。
戦後すぐくらいの日本人は自分のアイデンティティの基礎を思想においていた。
マルクスなんて理解していなくても、マルクス的なるものをアイデンティティ確立の基礎としていた。
しかし、現代は基礎となるべき思想が存在しない。
ゆえにアイデンティティの基礎となるものは「名前」や「住所」、「電話番号」、「メアド」など表面的な記号となってしまう。
そこで個人情報の問題が出てくる。
名前やメアドぐらいのものが流出することに異常なまでの拒否感を示すのだ。
名前と電話番号が流出するくらい、オレオレ詐欺の電話がかかってくるかもしれないくらいしか
実際に困ることはない。
しかし、個人情報の流出に恐怖を示す。
それはアイデンティティと深く結びついているからだ。
話はそれたけど、私的空間の拡大は「ごく私的な領域」の縮小をもたらす。
自分の私的領域が普通であることを確認したいため、または認められたいため、
他人の私的領域を知りたくなる。
私的領域の秘密を共有することが仲間である印となる。
友達なら何でも知っていて当然。何でも知っているからこそ友達と考えるようになる。
そして全てを知りたくなり、知らないことがあると落胆する。
そして「仲間」が崩壊する。
私的領域が多数の人と異なることは非常に生きずらい。
だが、私的領域を公開することがよりより人間関係を作ることではない。
それぞれがそれぞれの私的領域を認めることが重要だ。
全てを知ることが重要ではなく、認めることこそが重要なのだ。
人の全てを知ろうとすると、必ず衝突が起きる。
なぜなら私的領域を公開することは自分の存在理由を揺らがせることだからだ。
そして誰もが自分についてあまりにも無知だからだ。
こんなごく私的なことは公開できて、悩んでいる些細なことが公開できないのは不思議だ。
感情は論理的な正しさでは動かない。強い経験と記憶によって動かされている。
論理と権威
というか、かなり多い。
正確に言うと、論理では動かないという人が多い。
そもそも「人は論理では動かない」という命題はほとんどのケースで真である。だけど、動かないどころか怒り出す人が多いのだ。
こういう人は何で動くかっていうと、非常に単純で「権威」にめっぽう弱い。肩書きや名前、学歴、経験年数などに弱い。偉い人から何か言われれば、正しいかどうかを考えることもない。「偉い人」がいうから「正しい」という明快な論理だ。
逆を言うと、何の権威も持っていない人の意見は全く持って通用しない。論理的に正しいかどうかは全く関係ない。「権威のない人」が言うことは全て間違っている。というわけではないが、自分が知らないことを「権威のない人」が知っていることを絶対に認めない。こんな奴が俺の知らないことを知っているわけがないと思うのだ。
ただ、こういう人は面倒見が非常にいい。後輩や部下が自分になついてくる限りは、進んで色んなことを教えてくれる。もちろん上司には媚びる。媚びるという言い方は正確ではない。心底尊敬するのだ。理由は明快。上司だから。
彼らは物事をゼロベースで考えることができない。前提は既に与えられているもので疑うことはできない。常識は絶対。逆に、自分の知らない「常識」や「普通」、「一般的」には異常なまでの拒否反応を示す。もちろん権威のある人に教えてもらうことや、権威のある本(教科書)などに書いてあることは常識として受け止められる。
こういう人の精神構造は非常に単純だ。まず自尊心が高い。そして自分が否定されることを異常に恐れている。自分の自尊心を満たすものは権威しか知らない。自分より下の者に自分の意見が否定されることは自分の権威を否定されることに繋がる。自分の権威が否定されることは自分のアイデンティティが否定されていると受け止める。よって異常なまでの拒否反応を示す。逆に、自分より上の人の意見を認めることは権威の重要性を再認する効果がある。権威のある人の言うこと聞くことによって、自分の権威の正当性を保とうとする。
こういう人を僕みたいなペーペーの若造が動かそうとすると大変だ。権威を利用して「~さんが言ってたんですよ」って言うと、そのこと自体は認めるのだが、「なんでお前ごときが知ってるんだ」みたいになり怒り出す。一番いい方法は権威がありそうな人を味方にして、説得してもらうことだ。
なんでこんなことを書いてるかっていうと、別に上司がこういうタイプだっていうわけじゃない。こないだあった客がこういうタイプだったのだ。同じタイプの人がうちの会社にもいて、その人とは非常にソリが合わなかった。
僕があった2人はまだ若い人だったけど、歳を取って自分の権威が増してくるにつれ、そういう風なタイプになっていく人が多い気がする。
文系だけかもしれないけど、ちょっと真面目に勉強した人はクリティカルリーディングの技術が身に付いていると思う。教科書の言うことは絶対じゃなくて、どこか間違っていると思いながら読み進めよ、絶対視するなっていう本の読み方。別に勉強するっていう時だけじゃなくて、普段の仕事とかでも使わなくちゃいけないスキルだと思う。たぶん多くの人は高校まではもちろん大学でも教科書に書いていることは正しいことだって習ってきている。教科書に書いていることを疑ってはいけない。しかし、疑うことをやめた瞬間に、それは科学ではなくなる。疑う余地があるからこそ、科学と呼べるのだ。
人は論理では動かない。感情こそ人を動かす。論理を絶対視するのは間違っている。だけど、権威を絶対視するのはもっと間違っている。なぜなら権威なんてものは記号でしかないのだから。
Jurassic 5
- Jurassic 5
- Feedback
Jurassic 5の新しいアルバムが「Feedback」が発売されてた。
全然知らなかった。
最近、音楽情報の入手がすごく遅れてきている気がする。
あと、あんまり新譜に興味がなくなってきてる。
歳ですかね。
Jurassic 5はイギリスにいた時に、はまって1日中聞いてた。Blackaliciousと並んで、もっとも好きなHipHopの人たちの一つ。
で、店頭で見つけて即買うこと決めたんだけど、なんとCut Chemistが脱退したんだって。
HMVでCut Chemistのソロのアルバムが視聴できたんで聞いてみたら、J5の音そのものだった。そりゃそうだけど。
J5もまだ、Numarkがいるからいいかなって思って
Feedbackを帰って聞いて見た。
うーん。
悪くはないけど、まぁまぁいいけど。
うーん
やっぱCut Chemistの音が好きなんだよな。
聞き込んでみたら好きになるかもしれないけど。
ツナの野太い声は健在でした。
Cut Chemistのソロ買えばよかったかな
左利きの方がお金を稼ぐ?
http://www.excite.co.jp/News/odd/00081155346467.html
記事によると
全米経済研究所が公表した論文によると、同等の教育を受けた人の場合、左利きの男性は右利きの男性よりも15%多くお金を稼いでいるという。また、大学を卒業した人の場合、その差はもっと大きくなり、左利きの人の方が26%多くお金を稼いでいるそうだ。
統計学的な有意差が出たってことなので、嘘じゃないと思うけど。
考えられる理由は
1.脳神経学的な理由
2.社会学・社会心理学的な理由
の2点に分類できそう。
1の方は、サッカー選手に左利きが多いとか、芸術家に左利きが多いとかそういうこと。ちょっと胡散臭いけど、右脳だか左脳だかがどうとかこうとかで左利きの方が優秀みたいな。これについては専門家じゃないのでわかりません。
2の方がたぶん重要な要因じゃないかと思う。
左利きはマイノリティであるがゆえに、社会からある種の「他人」としてラベリングされる。
ラベリングの仕方も、ラベリングの受け取り方も社会によって大きく異なる。「左利き=変人」と決め付ける社会もあるし、「左利き=天才肌」みたいに受け取る人もいる。しかし、プラスの方向かマイナスの方向かは別として、おそらくほとんどの社会で左利きは何らかの特殊な能力だと見なされている。
マイナスの方向で「左利きの記号」を受け取ったレフティーは、奮発して一般人(右利きの人)よりも努力しようとする。(もちろん自分はダメだと諦める人もいる。)プラスの方向で「左利きの記号」を受け取った人は自信を持ち、堂々とビジネスを行うことができる。(もちろん自信過剰でダメになる人もいる。)
ちょっと単純化しすぎたかもしれないけど、こういうことは遺伝子とか脳神経学の話題になりがちだけど、社会環境の影響の方が遥かに大きいと思う。
マナカナが2卵生双生児なように。