今日は、志免町にある現在の亀山に在中の90代のおじいちゃんと、とある縁があり戦争時代の話を聞くことができた。
当時、志免の別府西公民館の前にあるユニバ通りの昭和町の信号に抜ける道は、まっすぐ福岡空港までつながっていたそうだ。
しかも、博多駅まで行く小さなバス(今で言うマイクロバスの様なもの)が通っていたとのこと。
昭和18年まで通っていたのではないかな?
と言っていた。
確かに別府西公民館の前の細い道は古い建物が多いし、どこか昔懐かしい雰囲気で煮物の匂いが漂ってる感が半端ない。
そのおじいちゃんは、戦時中小学5年生だったそうで、その時のお話をしっかりとした口調で話してくれた。
当時おじいちゃんが通っていた小学校は、空襲警報が鳴るまでは学校にいないといけなかったそう。
警報が鳴ると、小学6年生と5年生の高学年の子は1年生や2年生の小さい子を1人につき1人ずつ手を繋いで歩いて帰る決まりがあったそうです。
ある日空襲警報が鳴ったので決まり通り、、、、、、、、
当時子供だったおじいちゃんも1年生の子と手を繋いで、現在の宇美川にかかる橋、別府から亀山橋の方に向かって歩いていたそうだ。
すると、空から飛行機がブンブン飛んでいたかと思ったら、一発の爆弾が落ちてしまい、ほんの50m先を1年生の子供と手を繋ぎながら歩いていた当時小学校6年生のツカモト--君(フルネーム言われていましたがうまく聞き取れず)の足に当たったそうです。
弾が足を貫通してたからまだよかったと言っておられました。
たまたま、近くを日本の軍人さんが通りかかって、すぐ近くの亀山病院に運んでくれたそうだ。
軍人さんも通るし、病院も近くにあったからまだ良かったと仰っておりました。
90歳を過ぎた今でも被爆した一つ年上の男の子のフルネームまで鮮明に覚えているくらい、ショッキングな出来事だったからこそ、年老いた今戦争について関心を持った私にしっかりと話をして下さったのでしょう。
昔は東平尾公園も山だったそうで、アクシオンの向かいの所は大きい墓地があったそう。
今もあるんですか?
と聞くと、
大きい墓地だったから、おそらくあるだろうねぇ
とのことでした。
また、志免町の炭鉱のことも教えてくれた。
志免町の炭鉱は海軍炭鉱と言って、戦時中に使う船の燃料を作っていたそうで、
日本一の大きさの炭鉱だったんじゃないか?
と仰っていました。
また、福岡空港の近くにも月隈炭鉱があり、それはもう質の良い石炭が出ていたそうです。
しかし、空港ができるから
とのことですぐに閉山となったそうです。
色々教えて下さったおじいちゃん、貴重なお話をありがとうございます。