J-POP蘇生術 3枚目の処方箋


 J-POP空白の17年を経て見えてきたのは、音楽業界全体が「アーカイブ(過去作品の保管)の時代」になったということだ。
 前世紀に比べ、現行のアーティストのレベルは決して低くない。楽曲制作のレベルはむしろ上がっているくらいだ。
 だが彼らの新曲群が、なぜか、若者たちには届かない。音楽業界メインターゲットの10代が、なぜか「新曲」を欲していないからだ。それはおそらく私もあなたも同じだ。
 ネット時代に突入し、過去の名作曲の発掘や検索が容易になってしまい、J-POP図書館は、もはやどの棚もいっぱいで(返却口も山積みで)、もう入りきらない。
 あなたはJ-POPの新曲が必要ですか?
 周囲に聞いてみても「絶対欲しい」という声は見事に返って来なかった。
 カラオケに友人たちと行ってみるがいい。
新曲を高らかに歌われても、その他の人たちにとっては、耳馴染みがないので、座はシラーッとするばかりだ。
同じアーティストの誰もが聞き馴染みのある有名な80年代、90年代の過去ヒット曲のほうが場が盛り上がる。   
SNSのせいかどうかは知らないが、一緒にいても「共有」できない時間を過ごすのは、或いは「いいね!」できない空間を共にするのは、全員が苦手になってしまっているのだ。
  J-POP最後の天才、宇多田ヒカルが10数年ぶりにニューアルバムをリリースした。期待に違わぬ名盤だ。
だが、もし彼女のCDを外国の友人に1枚だけプレゼントする時、この新譜と10数年前に発売されたベスト盤のどちらを選ぶとなるか、となるときわめて微妙だ。
 同じ3000円で1枚を選ぶ行為。アーティストの力量、成長力、ではなく、「ベスト盤を選ぶ」のがコスパの良い消費行動といえるだろう。
 それはスピルバーグの新作と過去の名作、どちらを選ぶか、という選択に似ている。
 「ET」と「ブリッジ・オブ・スパイ」、どちらを選ぶべきか。
 世界中でコンテンツバブルが弾け、エンタメに関しては、みんな「お腹いっぱい」なのだ。
 かって、ジャズがそうだった。アドリブの閃きがピークに到達すると、(アバンギャルドが行き過ぎた)フリージャズに行かざるを得なかった。
 クラシックも調性のとれた名曲群が溢れかえると、(無調・不協和音を中心とする)現代音楽へ向かわざるを得なかった。
 人間の才能とは、かくも進化を求め続ける宿命にあるのか、とタメイキをつかざるを得ない。
 そして大きな意味では、時間の経過と共に「スタンダード」に行き着く。
定番の名曲群のチョイスに落ち着くのだ。
 エンタメでいえば、浪曲、講談、落語がそうだった。演劇の「再演」が好まれるのも同じニュアンスだ。
 新作、前衛的なバレエ、ダンスなども一部のファンには支持されるが、ややサブカル化してしまう。
 J-POPが戦後の日本の歌謡曲の総称とすると1945~2005年で還暦を迎えていたことになる。日経ビジネスが提唱した「会社の寿命」があるように、エンタメにもおそらく、寿命がある。
 だが、滅びはしない。70~80年代、ジャズもクラシックもスタンダードジャンルと言われ、「シェア2%」を粛々と守っていたものだ。
おそらく多くのエンタメはその位置、定番商品の時代、に収まっていくのだろう。
 作曲のツールである、コンピュータプログラムの代表的なソフト、プロトゥールス11の値段が、今や、アマゾンで僅か4万円前後だ。
 音楽の進化は楽器の進化である、という謂に習って、たとえば「音楽の歴史はシンセサイザーの歴史である」と80年代頃には盛んに言われたものだ。その頃のシンセは、値段が、目が跳び出るほど高価な代物だった。
 スタジオのレコーディング用のコンソールも同じだ。
 その両方の性能を兼ね備えるソフトが、たった4万円。
 ハングリーで、闘争心のあるASEAN各国の若手クリエーターたちが中学生くらいでそのソフトを誕生日プレゼントされ、条件が同じになれば、平和ボケ国家の音楽貴族は没落するしかないだろう。
 「再生」したいのならば、ジャンルを壊し、新しい枠組みを創り出すことだ。演歌を壊してフォーク、ニューミュージック、ロックが生まれたように、まず「破壊」だ。
J-POPは、今のままでは、守りに入り、世界規模で見れば、単なる「自衛(J)」―POPになる恐れがある。