見れない状態でしたので、再々掲載します。私の釣りの出来事ですが、興味無い方はスルー願います。

 

 

 

ヒストリー1

 

「堤防通いと初40オーバー」





 田舎で育った私にとって小さい頃の
遊びといえばフナ・コイ・ハゼ釣りでした。しかし中学・高校と部活三昧、社会人になっても改造車命で夜遊びの毎日。




23歳のとき、幼なじみから釣りに誘われて堤防に行くと、配合エサにドングリウキ、高価な道具にスポーティーでカラフルな服装と、釣りの進化にショックを受けました。




 最初はただのヒマ潰しでしたが、何回行っても釣果で勝てません・・・。特に会社の後輩H君とは天と地ほど差を感じました。 そのうち負けん気がムクムク出てきて、道具を揃え、毎週どこかへ釣りに出かけるようになりました。

 

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堤防・テトラから地磯、ボートで行く小磯まで。2年程この状態が続いたが、グレは最高34cmが2匹。渡船に憧れる。


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 初めて渡船に乗ったのは26歳のとき、H8年の春・御座の大伸丸でした。25~30センチのグレは何とか釣れましたが、渡船で行ってもこんなものなのか?やっぱり自分が下手なのか?という感じでした。





しかし大伸丸5回目、H9年1月に35と36cmのグレが釣れ、大喜びでつりニュースに投稿。この頃、故中瀬文男さんがつりニュースに御座磯の記事をよく書いていて愛読しており、自分も釣れたら書こうと思っていた(初心者が磯に行ったら、みたいな記事)





 次に阿曽浦へ行ってみたが、志戸本島で丸ボーズ。しかし双子で45cm級2枚が出ており、ビックリして次は双子に上がる事にする。しかし双子はどこかわからないし、船頭も無口(電話では双子を希望したが・・・)。



ここかな?と降りたのはサメガ瀬。しかし沖向きで初めての40オーバー(43cm)が釣れた!!。渡船7回目、3月の腹パン。タモを忘れ、波で引き上げた。しかし、自宅の台所にほったらかしにして夕方地磯に行ってたら、勝手にバラバラにさばかれ(煮付け用)、写真も魚拓も取れず、憧れの刺身も食えなかった・・・ 






 この時の様子も投稿、しかし磯名は間違ってるし写真も無く、しかもタモ無し。掲載はうれしかったが非常に恥ずかしい思いをすることに。「堤防で練習してきた自分はヘタじゃない!、ただ磯の経験が少ないだけだ・・・」そして自分の腕を証明するため??の戦いが始まった(だからその時点でまだ初心者だっつーの!笑)。






 それでも40cmオーバーのグレで一歩進んだ気がして、97年5月に尾鷲で行われたマルキューカップ地区予選にH君と参加してみた。申し込みのクラブ名には「チーム志摩磯」と書いた。しかし大型をバラしたうえ、自分の引き出しの無さと他の人との差にガックリ。






尾鷲の磯は初めてで、磯のポイントどころか方向も名前も全くわからない。上級者にまで成り、広い尾鷲の磯やポイントを覚えるにはどれほどの時間と労力を要するのかガクゼン・・・





 当時とにかく時間のある限り釣りばかり行き(お金節約で堤防・地磯中心)、投稿を続けた。阿曽浦は大春丸が良いと聞き、以後休業するまで利用。この年の5月にもオジマの離れでグレ38cm頭でいい釣り。

 

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         「年無しとイナフネ爆釣」




 97年6月に好調の錦の磯へ初挑戦。しかし大荒れで内磯の大石へ。がっくりだが夕方にジアイが来て、裏側で3連発バラシ。


ハリ外れ・ハリス切れ・最後は竿尻が折れた。船頭はアイゴだと言うが、当日アイゴは何匹も釣っており、それより3倍は重かった。涙が出そうになった。




 ずっと使っていた竿は折れたし、もっと良い竿が欲しくなり「がま磯グレ競技SP」を購入。7月に相賀浦の磯へ。この日も大荒れだったが止ノ鼻ハナレで納竿間際に大型ヒット!。

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これが初めてのチヌ50cmだった。これで分かった、錦のバラシ一発目はチヌだ。また、レバーブレーキにも慣れてきた。




 10月、紀伊長島の大島で、60どころか70cmくらいのグレを見た。周りを40cm級グレ20匹くらいが囲んでいた。ウキをさけるように、ウキのそばには浮かなかった。サシエは喰わなかった・・・・。今なら喰わすことができるだろうか?よく思い出す。





 12月、会社の先輩恒例の3泊4日釣り神津島遠征に連れてもらった。初めての離島で「本流よう釣らんやろ、マキエ全部よう使わんやろ」と言われつつも尾長48cm頭にクーラー満タン釣り、なんの間違いかメンバー7人で一番の釣果だった。その後隊長の?松田氏と数回奈屋浦などでサオを並べ、技術・考えを吸収。

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 年末年始、志摩町越賀の地磯へよく行った。合計すると32cmまでを20匹くらい釣った。Hくんは39cmもゲットした。

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 98年3月、公休が悪天候で4週潰れたが、好天日に好調の紀伊長島・イナフネへ。いきなり44cmのグレが釣れ、その後沖バエ向きで次々と追加し、11時撤収ながら尾長混じりで25~44cm18匹

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横のH君は1匹、他の釣り客20人は丸ボー。船頭には覚えてもらい「プロ」と冷やかされるように。仕掛けは0号ウキのスルスル(後にゼロスルスルと呼ばれる釣り方)。3月に40up含め18匹は自己記録となった。





 4月に石鏡でチヌ3枚。5月にはまたオジマの離れへ。ところが他にも希望者がおり、狭い磯へ3人で降りた。1人の方になじられた。その方と違う方向を釣り、チヌ43cm・イガミ40cmにグレ2匹(左下)。その方は多分ボーだと思う。もう一人の方はチヌを釣っていた。

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 少々ウデが上がろうが、やっぱり有名クラブに入ってないとダメなのだろうか?20代後半だと初心者扱い? 別にエラそうにしたいのではなく、船頭にも釣り人にも認められて良いポイントに入りたかった。それまで独学に近く、クラブにも未加入。記事は書き続けていたが「道勝」のペンネームだった。この一件でいろいろ思い考えることに。



 その後もあちこち行き、レベルは上がったかな?と、またマルキュー地区予選に参加。申し込みのクラブ名は「志摩磯会」と書いた。



立神ハナレずらっと誰の竿も曲がらないなか、私だけサンノジに小マダイ2匹を釣った。一年前はどうしていいかわからなかったが、それと較べれば少しマシになった気が・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ヒストリー2

 

     「クラブ入会と大会挑戦」


 98年。自分のグレ釣り・・・ずっと独学に近く、確証は無かった。やはりクラブに入る必要性を感じていた。 そこで大きなクラブに入りメーカーの大会にも多く参加してみることに。投稿記事も本名にした。




 がまかつのサオが良かったし、三重県で全国的に有名な三原憲作名人の釣りが見たかった。職場の松田さんの誘いもあり、そのクラブに入った。松田さんはこの時クラブの2年連続チャンピオンと知りビックリ。
「お前ならええとこ行くぞ。ま、分からんけどな、笑」と言ってくれた。




 10月、初めての月例会は錦。黒崎東で横には三原憲作名人。私がキープサイズを6匹、名人は後からサオ出し、他の人の指導をしつつ5匹。これで参加40名中で初出場・初優勝を飾ることに。


同月グレマスターズ地区予選。投石で皆ボーズ状態の中、26cmと35cm(尾長)2匹で200名中20位入賞。11月がまかつG杯地区予選、70名中10位(横井さんが連続優勝した)。月例会は梶賀、40名中7位で、一緒に上がった木村さんと仲良くなる。

 

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 99年冬、紀東のグレはやや不調で、自分も30前後ばかり。3月の月例会は島勝だったが小荒れで内磯。そのためチヌOKのルール。チヌ39・46・53・55.8cmと爆釣で、50人中2位。その勢いで憧れのクラブチャンピオン戦へ駒を進めるが、あっけなく初戦ジャンケン敗退・・・・・。


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 ずっと投稿を続けていたつりニュースより、堤防グレの原稿依頼。話は連載へと移り、伝説の?「堤防でグレゲッチュー!」が連載開始。4月、G杯磯チヌ地区予選。寒い雨の中、船中一匹のグレを手にし、60人中6位で地区予選突破!。兵庫の家島決定戦へ出口さんと出かけるも、1勝1敗1分け敗退。家島リベンジに燃える。

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 5月、好調の紀伊長島へ。丸山でグレ45cmゲット。つりニュース連載のために堤防釣行が多かったが、越賀テトラでグレ33.5、チヌ52cmをゲット。7月、つりニュースより某製品で記事の依頼。半夜の錦の磯でグレ34cmを上げ成功、大谷義正名人と少し喋る。夏場、バッカン浮かべて泳いで近場の磯へ上がる方法で、釣果を上げる。

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 10月、つりニュースより、つり作戦で堤防グレを、との依頼。これを引き受け、取材でも相差堤防で30cmを上げ表紙になる。記者の方にやたらおだてられる。次はぜひ沖磯で取材やりましょう!、とのことで、オープンしたばかりの阿曽浦とせん丸へ行くことに・・・・。



この時はただボーズ食らったらどうしようと心配してばかりだったが、このシーズン紀東は絶好釣を迎える。
年間釣行90日、それまでは小遣いに見合って月1~3回だった渡船も、しだいに毎週渡船という状態に入っていく・・・

 

 

  「クラブチャンプとG杯グレ全国大会」

 

 

 

 同10月、グレマスターズ地区予選再挑戦。160人中なんと3位で予選通過!、ブロック大会は出雲崎。京都の平和さんと対戦。前半3-0でリードするも船頭から波危険だから東向きへとのことで、私は彼のいた釣り座、平和さんは水道へ。しかしそこが本命、良型2匹釣られ、4-2だがグラム差で負けた。 彼が釣れなかった前半に4枚釣り、さらに後半は彼がボーズだった釣り座で1匹掛けたので負けた気はしてないが・・・勝負は負け。

 

 

 11月、G杯地区予選120人中13位で通過。串本での決定戦はどうにか2勝1分けで5位、30歳、ついに全国大会出場へ!

 

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 2000年、紀東爆釣。1月いよいよ沖磯での取材、阿曽浦志戸・西先端、つりニュースカメラマンの前で44cm頭14匹釣り大成功(前日下見で38cm頭23匹右下)。

 

 2月島勝でクラブ例会、潮吹きで30後半2匹、54人中優勝。赤石一番でグレ39~46cm4枚。

 

 3月阿曽浦ボーグイでグレ50.5cm(拓寸51.5cm)。初のゴーマルオーバー

 

 4月年間チャンピオン戦優勝(左下)。1999年度チャンピオンとなり、ネーム入りがま磯レイダム1号をいただいた。AQAウキさんよりテスターのお誘いを受ける。

 

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 5月、引本オザキでチヌ52cm。6月、奈屋浦黒島で尾長43cm頭11匹、片田漁港でチヌ52cm、

 

9月にマダカ53cm。10月越賀磯でチヌ50cm、錦でカツオ12匹・ハマチ3匹・マダイ2匹。

 

11月、G杯地区予選101人中23位で通過(決定戦は敗退)

 

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 12月、ついに来た!G杯グレ全国大会。横井さんと大道寺さん清水さんと共に五島列島へ。

一日目の予選リーグ、一回戦テスターの方に3-1で勝利。2回戦コッパからキーパー1匹引き出し勝利。3回戦、ホームは五島の方だが深ダナ狙いで6匹-2匹で勝利。4回戦は何も釣れず引き分け。これで決勝リーグ進出!。

 

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   二日目の決勝リーグ、いきなり池永祐二さんと対戦。まだ暗い前半いきなりバラシ、後半払い出しへのマキエでウスバが沖に散り、だんだんグレが際に見え、繊細に食わして何と勝ってしまった。選手を迎えに来た渡船で三原さんが「お、お前勝ったんか!?ようやった!ようやった!」と迎えてくれた。

 

 次の松田稔さんとの対戦ではウスバハギの経験差を見せ付けられ0負け。

最後は近重さん、前半なぜか潮下で反応無く、やっとヒットさせたらマダイで根気も体力も切れ、後半潮下でグレが湧き、爆釣されてしまった。

 

 しかもマキエの分量を間違えていて、松田さん近重さんとはオキアミ1枚ずつで試合していた。松田さんに0負けした時点で緊張と集中力が切れていた。結果は7位。正にうれしいような悔しいようなで、下見含めて3日間戦ったネーム入りレイダムを見て涙がジワリ・・・・「優勝した池永さんに唯一の黒星をつけたのは勲章だよ」と役員の方に言われたが・・・。

 

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31歳、G杯決勝リーグで松田稔名人、池永祐二名人と対戦する強烈な経験・・・

 

一つ言い訳させてもらえば・・・ ウスバハギは初めてだった。