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天理教には「かしもの・かりもの」って、教えがあります。

 

ザックリ言うと、

一人ひとりの「身体」は、神様からの借り物で、

借りている身体を通して、体験する人生の経験や家族や友人などの人間関係を始め、周囲の環境など、あらゆるものは神様から借りていて、心だけは自分のモノとして使うことを許されている。

 

ということだと解釈しています。

 

天理教の中で多くの人は、

「心」は自分のモノって、考えられているのですが、

実は一人ひとりの「心」も神様からの借り物で、

自分のモノとして使うことを許して下さっている「使用許可」が

「心一つが我がの理」「心の自由」の正体だと思っています。

 

天理教経典第7章 68ページの冒頭に…

心遣いも、銘々に、我の理として許されてはいるが、親神の心に添わぬ時は、埃のように積りかさなり、知らずに識らずのうちに、心は曇って、本来の明るさを失い、遂には手もつけられぬようになる。

 

という文章があります。

 

この文の冒頭部分の

「心遣いも、銘々に、我の理として許されてはいるが」

という所を訳すと

「心を自分のモノとして使うことを一人ひとりに許されているが」

って、訳すことができると思います。

 

つまり「身体」も「心」もその他森羅万象は、神様からの借り物で、本来人間は、自分自身の持ち物は何一つ持ち合わせていないのだけれど、

「心」だけは、自分のモノとして、使うことを神様から「許可」してもらっている。

というのが、

「心一つが我がの理」「心の自由」の本質ではないかと考えています。

 

何故なら、借り物である「身体」がないと「神の身体」である世界の中で、主体である「魂」に「心」は宿らないから。

例えるなら、

sns上におけるアカウントが「心」で、sns全体を運用するシステムが「十全の守護」で、ディバイスが「身体」っていう関係性が「心」と「身体」と「自分を含めた世界」だと考えています。

 

snsの運用目的は、現実世界で会えない人にネットを通して、コミュニケーションを図ることで、より人生を豊かにしていくことだと思います。

 

つまり、陽気ぐらしです。

 

しかし、誹謗中傷や規約違反などの目的に合わない使用をすると一部制限がかかります。これが「節」です。

また、使用する為には、操作するためのディバイスが必要です。これが「身体」です。

また、多数の利用者が同時に使う為には、使いやすい仕組みやルールが必要になってきます。これが「十全の守護」です。

そして、この人と繋がるシステムの中で、自分を自分として表現するためのアカウントが必要になります。これが「心」なんだと思います。

 

こういう風に考えると「心」も実は神様が創り上げたシステムの一部なんだけど、神様の目指す「神人和楽の陽気ぐらし」の上で、人間に「自由」つまり「人生の裁量」を渡した方が、面白くなりそうじゃん!!

って、ノリで創られたのが、「心の自由」つまり「心を自由に使う許可」なんではないかなと考えています。

 

こういう風に考えると説明できることが増えるのですが、

それについてはまた機会を改めて、お話していきたいと思います。

 

本日も最後まで拙い文章にお付き合い頂き、ありがとうございます。

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