つい最近読んだ本のなかに、浅見徹『改稿 玉手箱と打ち出の小槌』というものがあり、そこに源義経の悲劇についての考察で面白いものがあった。この本の主題はまったく別のところにあり、義経のことは余談としてわずかに記されているに過ぎないのだが、興味深く、目に留まったので記しておくことにする。
義経の悲劇は、都育ちで東国に馴染みの薄かった彼が、前代的貴族的集団構成の原理から抜け出せなかったことが根底にあり、頼朝一人を当主として、兄弟すらも家人同然と見なす東国武士団の認識を理解できなかったことに端を発するものだという。
八幡太郎義家や鎮西八郎為朝、九郎義経など、源氏の男たちが、その名に太郎や次郎といった兄弟順を示す呼び名が冠されているのは周知のことだが、それらは当代において、その名の有する社会的意味を示すものだという。長男惣領制が完全に確立するのは、さらに時代を下らねばならないが、そうした萌芽が既に表れているということだ。
他方、平家一門は、太郎、次郎というような兄弟順の呼び名を名乗らない(家人の中にはいたが)。兄弟順を、権力構造の中の順位に直ちに反映させることを、平氏はさほど重要視していなかったという。一門は、基本的には平等であり、一致した一族として家人の上に君臨したということだ。義経は、幼少より京に住まい、平氏との関係も浅からず、いわば平氏的な価値観=前代的価値観の中で育ったと言えるが、それが仇となった格好だ。浅見氏は、『吾妻鏡』にみられる他の家人とともに義経も馬を引くように命じられ、それをしぶった話、あるいは壇ノ浦合戦での梶原景時との先陣争いで、あわや同士討ちという一触即発の事態を招いたという『平家物語』の記事にふれつつ、その認識のズレを指摘している(これらの内容の史実的当否には若干揺れがみられるようではあるのだが)。
義経の成育環境が旧来の思想が色濃いものであり、惣領制の原初段階に移行しつつあった頼朝らの意図するところと相容れないものであったという点に、彼の悲劇の源を探り当てたものと言えるだろう。なかなか興味深いものがある。そのように捉えてみると、義経という人物像も人間臭さを帯びてくる。「判官贔屓」という言葉に代表されるように、とかく悲劇のヒーローとして認識されがちな義経であるが、時代の移り変わりの波に乗り切れなかったという彼自身の内部の問題が悲劇を招いたという認識は、いくらかなりとも彼の実像に近づくものだと思うのだ。と同時に、因果律というべきか、頼朝方と義経との間に起きた不和の原因が、具体的に排除される側の義経に見出される点で、より納得のいくものになっていると感じられる。
義経が頼朝の怒りを買った直接の原因は、許可なく勝手に官位を受けたことにある。これは頼朝の地位を脅かすに足るだけの重大事であったことだろう。また頼朝の忠臣梶原景時との対立や義経の人望を頼朝が恐れたなどということも、しばしば説かれるところである。そうした理由のいずれにしても、義経の側に何ら非のないことを許すものではない。もっと言ってしまえば、源氏方に芽生え始めていた惣領制の意識を、義経が十分には把握できず(あるいは迎合できず)、自身の価値観を時代の推移に伴って変化させていくことができなかったという彼自身の錯誤が諸事の根底にあり、その身を滅ぼしたのは自分自身だったということも可能なのかもしれない。
