東日本大震災から 一年がたちました。
たくさんの方が犠牲になり いまも行方不明の方がたくさんいます。
復興に何年かかるのか、被災地の方が心穏やかに生活できる日がいつくるのか・・・・。
私には何もできないけれど、被災した人たちを忘れないで生活することだけが 唯一自分のできることかと・・・。
私はあの日 仕事をしていて、午後4時過ぎに職場をあとにしました。
地震後 電車がすべてストップしていて、巣鴨駅から埼玉にある自宅まで徒歩で帰宅しました。
職場で待機することがよかったと 後日報道されていましたが、あのような状況に立たされると 家族のもとに早く帰りたいと思ってしまうようです。
犠牲になった方たちも 家族が心配で自宅に戻り 津波の犠牲になったかたがいたようです。
携帯電話は全然通じなくて 公衆電話で自宅と実家に連絡がとれました。
巣鴨駅周辺には人があふれていて 自宅に向かって国道17号線を大勢の人が歩いていました。
私も埼玉まで何時間かかるかわらないので 近所のパン屋さんでパンを購入して歩きだしました。
地図を見なくても土地勘はあるのでひたすら歩くのみ・・・あの日はかなり寒かったはず、しかし歩いているときは感じませんでした。
王子駅方面には行かず、埼京線十条駅方面に向かっていきました。
電車が止まっているため 踏切の遮断機はあがったままです。
途中米屋さんの横にある公衆電話で電話していたら米屋のおばちゃんが話かけてきました。
岩手が、津波で凄いことになっているよと教えてくれました。
携帯のTVを見ることができたけど、何となく怖い気持ちがあり、「気をつけてね」とおばちゃんに見送られて再び歩き出しました。
見知らぬサラリーマンと情報交換したり、途中の公園でパンを食べていたら、何人かの人が足をとめて休憩しはじめました。隣に座った女性とも話もしました。
赤羽駅に到着したころには、日が暮れて駅前も人であふれていました。
荒川大橋を渡れば埼玉です。
道路は車が大渋滞、歩道は行き交う人でいっぱいです。さすが川の上風が半端なく冷たい。
赤羽のあたりで主人とメールが通じて車で迎えに来てくれるとありましたが、荒川を渡ってから迎えにきてもらうよう頼みました。案の定122号線上り下りとも渋滞していて全然動いていません。
地元川口は目の前、橋を渡りながらリリアの建物が見えたときは帰ってきたと・・・。ホッとしました。
川口駅のシャッターは下りていて、バス停には行列ができてました。
主人と待ち合わせの場所、アリオ川口に到着です。
主人の顔をみた時、何とも言えない気持ちになりました。
全行程10㌔ちょっと。途中休憩も入れて4時間半の帰宅でした。
大勢の帰宅困難者が街にあふれ、家族の顔を見るまでひたすら歩いた人たちが何万人いたのかと・・・。
あの日を忘れないためにも、今回ブログに書いて残すことにしました。
私のおじさん・おばさん・いとこも福島にたくさんいます。
幼いころ 毎年遊びに行っていた両親の実家も 大きく損傷を受け農作物もおおきな影響を受けています。
「人間は生かされているんだよ」と 幼いころから聞かされてきました。
人間は自然に逆らえない、生かされていると感じます。