特に、他人から理不尽と思える事で嫌な思いをさせられたとき、他人を恨んでしまうものだと思いますが、単純に人を恨んでも良いものかどうか一度考えてみることも重要ではないかと思います。
まず第一に、自分にも問題がないかを考えてみる必要があるのではないでしょうか。
つまり、自分自身、相手に不快な思いをさせていたにも関わらず、自分の事を棚に上げて相手を非難している場合ですが、大抵は、両者に問題があるものだと思います。
相手が100%悪くて自分は100%正しいという事などまずありません。
次に、相手のおかれた状況を考えてみる事も大切だと思います。
誰でも自分が幸福であれば、他人の幸福を願い、自分が不幸であれば、他人が嫌がる事をしたくなるものではないでしょうか。
相手の立場になって考えるという事も大切かもしれません。
自分に全く落ち度がない見つからない場合はどうでしょう。
この場合は自分の過去の行いを振り返ってみることもよいかもしれません。
自分が過去に他人に対して同様の事をしていたという事が発見できるかもしれません。
そうすれば、相手を恨む事がお門違いであると思えるかもしれません。
自分に落ち度が見当たらず、過去にも自分が他人に対して同様の事をしていない場合はどうでしょうか。
この場合は因果律を考えてみればよいかもしれません。
他人を恨めば他人からも恨みが返ってくる。そして争いに発展する。そういった悪循環が引き起こされるということを考えれば、他人を恨んではならないと思える人もいらっしゃるのではないでしょうか。
「実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息(や)むことがない。怨みを捨ててこそ息む。これは永遠の真理である。」(釈迦)
「残酷は残酷を呼び、争いは争いを生みます。が、愛は愛を呼び、慈しみは慈しみを生みます。人間が憎しみと破壊の生活をすれば、人間みずからが破壊の道をたどることになります。」(シルバーバーチ霊)
さらに、その憎い相手は、他人に迷惑を掛けたのだから、必ず自分自身が苦しむ事になると考えれば、わざわざ自分が恨んだりする事はないと考えられるのではないでしょうか。
また、他人を恨む事で自分が得をする事などあるでしょうか。
自分の心がネガティブなものとなり、自分自身を破滅させるだけではないでしょうか。
「ゆるしの気持ちを身につければ、その記憶にまつわる負の感情だけを心から手放すことができるのです。ゆるしとは「相手を無罪放免にする手段」ではなく、「自分を自由にする手段」です。」(ダライ・ラマ14世)
因果律を考慮すれば、ダライ・ラマがおっしゃる言葉もより深く理解できるのではないかと思います。
相手を許しても、相手は無罪放免になる事はあり得ませんし、自分自身は恨みの感情から解放されて心の自由を得ることができるのです。
このように、他人を恨むという行為一つとっても様々な角度から捉える事が出来るのではないかと思います。
人を恨む事は本当に正しい行為でしょうか。
人間は様々な人と出会い、様々な経験を積むことで、より多くの人を受け入れることのできる度量の広さを得る事が出来るのではないでしょうか。
自分が不快に感じる人というのは、このような機会を提供してくれる貴重な存在だと捉える事もできるかもしれません。
「霊格(人格)が高いことを示す一ばんの証明は人を選り好みしないということです。」
「人間が地上にあるのは人格を形成するためです。ふりかかる問題をどう処理していくかがその人の性格を決定づけます。」
「人を憎むことのできる者はそのエネルギーを愛に転換することができるのです。愛と憎しみとは同じコインの表と裏です。どちらを選ぶかはあなた次第です。」(シルバーバーチ霊)
(死後の世界が存在するかどうかわからないという方はこちら→魂の死後存続の証明)
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