近くて遠い人だからこそ言えない、息子の障害への理解
みなさんおはようございます。今日はすごくいい天気。明日は雨予報なので、今日、洗濯すればよかった~。と、思って、慌てて洗濯機回してきました、今(笑)。息子がお気に入りの、夏用の冷感タオルケットも洗濯です(笑)。このタオルケット、真冬の寒い中でも、ずっとかぶってるので、私は寒くて、寒くて…肌触りのいいものが大好きな息子。お気に入りのタオルをやっと卒業したかと思ったら、冷感タオルケットとは…(^^;さて。昨日、元夫の親友の実家に行ってきたわけですが(前回の記事参照)、そこでいろいろと、息子のことを理解してもらう難しさを感じました。早くにご両親を亡くした元夫の親代わりになってくださっている親友Kのご両親。私にとって、結婚当初から、義理の両親でもないし、全くの赤の他人というには近しい、この、微妙な距離感のご実家との付き合いに、戸惑うことが多かったのです。息子のことも、生まれた時から関わってくださっていて、お世話になっているだけに、強くは言えないけど・・・特に、典型的な昭和のおじいちゃんのKのお父さんは、息子の偏りを、あまり理解できなくて、親の私のせいだと言われることも少なくないのです。でも、これくらいの年代の方は、考え方がもう固まっているので、理解を求めること自体が難しくて、私はもう、「そうですね(笑顔)」と、返事をすることにしています。息子は、軽い自閉症スペクトラムなので、見るからに障害というわけでもなく、非常に微妙な偏りがあるので、周りの人からの理解が得にくいのです。息子と私は、結構偏食がjひどくて、同じ食べ物でも、微妙な味の違いや匂い、食感など、ちょっとしたことを敏感に感じ取るので、あー後、見た目でも、食べられないものが多いです。同じハンバーグやうどんでも、メーカーが違うと食べられないなんてことも、特に息子は多いです。それはまさに、わがままと見られがちで、親の私が好き嫌いをしているから、息子も好き嫌いが多いのだと言われます。家では、私は息子が食べやすいように食材の切り方や選び方を工夫しています。だから、比較的何でも食べてくれます。同じ食材、同じ調味料を使っても、元夫が作ると息子はなかなか食が進みません。それは、例えば、食材の切り方が違うとか、煮込み時間が違うとか、そういった微妙な違いが判るからです。私はそれを、息子が悪いとは思っていなくて、わがままだとも思っていません。だからと言って、私以外の調理をしてくださる人に、息子に合わせた調理をしてくれとも思いません。食べられないものでも、ある程度は頑張って食べるようにしている息子の姿も知っていますし、食べられなくてお腹がすいても、それは仕方がないと息子にも話しています。作った人に対して、料理のダメ出しをしてはいけないと話したうえで、無理なものを、吐いてまで食べる必要はないとも話しています。私は子供のころ、「好き嫌いなく何でも食べろ」という教育方針の下、食べられないものを無理やり口に入れさせられて、トイレで何度も吐きました。私はこの、「好き嫌いなく何でも食べる」という考え方が好きではありません。もちろん、好き嫌いがないことは素晴らしいこと。だけど、好き嫌いがあっても、別にいいと思っていて、栄養失調になったり病気になったりしない限りは、嫌いなものを無理やり食べるよりも、好きなものをおいしく楽しく食べることにこそ、食事の素晴らしさがあると思っています。昨日は、息子が好き嫌いをするのは、私が「あれは嫌い、これは嫌い」と、自分な嫌いなものを息子に言っているからだと言われました。もう、この食に関する理解は、得られなくても仕方がないと思うことの一つです。元夫ですら、「わがまま言わずに食え」と、言いますから。そして、帰りの車の中で、Yちゃんに息子が怒られたこと。息子はよく、「貧乏ゆすり」をします。貧乏ゆすりって、昔から嫌われる癖ですよね。私はこれも、気にしません。一人でやってる分には、迷惑はかけていないと思うので。息子は、小さな多動があります。とにかく落ち着かないというか、体のどこかが動いています。これを止めるというのはなかなか難しい。難しいんです、わかるんです、私もそうだから。私は大人になってきて、貧乏ゆすりみたいなあからさまな形では出ませんが、私もとにかく落ち着きがなくてじっとしているのがすごくつらい。息子は、車の中でガタガタと足を揺らしていました。それに気づいたYちゃんが、「誰ー?揺らしてるの?!やめてー!」と、言いました。そしてまた、信号待ちの時に、「誰、さっきから~。やめて~。」と、言いました。元夫は、「息子やろ。息子が貧乏ゆすりしとんやろ。息子、やめろ。」と言いました。私はすごく心が痛くなりました。そんな言い方…息子はわざとやっているわけではありません。一度目に言われたときにも、ハッとした顔をして、申し訳なさそうにうつむきました。二度目に「貧乏ゆすり」と言われたとき、本当に辛そうでした。私は息子の膝にそっと手を置いて、黙って頭を撫でました。息子は家にいるときも、こたつの中で足をよく揺らします。確かに、私の足の上に足を重ねて、足を揺らされると私も気持ち悪いです。すごく嫌な気持ちになります。なので、「息子、ごめんやけど、足、おろして。足を揺らすのは別にいいけど、私に触れながら揺らされると気持ち悪いねん。足おろして。」と、言います。私にその振動を伝えると、私が嫌な気分になることは知ってもらいたい。その上で、自分一人ならやってもいいよ、別に誰の迷惑にもなっていないし。と、伝えます。確かに、見栄えのいいものではないかもしれません。だけど、電車の中で、貧乏ゆすりをしながら座っている人がいたとして、誰が迷惑でしょうか?それを見てると気分が悪いなら、見なければいいだけのこと。そんなことよりももっと、人間は寛容になるべきだと思います。偏りのある人間に対して、世間はあまりにも心が狭い。食べるものの好き嫌いが多いからと言って、誰に迷惑をかけるのか。困るのは自分自身だし、それも自分でわかっていること。だけど、好き嫌いが多いから死ぬことはないだろう。それよりも、周りからの無理解や無関心で、世界が狭くなったり、生きづらくなることのほうが、死活問題だと私は思うのです。人は皆、それぞれの価値観を持っています。昨日、私も、夜、相方さんと話をしていて、自分の心の狭さや、考えの至らなさを感じました。相方さんの、人は、特に大人は、周りに対して寛容でなければならないと思う。という言葉を聞いて、本当にそうだなぁと思いました。寛容な世の中でなければ、俺は生きる場所をなくす、俺は存在意義がなくなる、というような言葉を聞いて、障碍者や、社会的弱者の心の叫びを聞いた気がします。私は、自分もいろいろ病気や障害を持っているけれど、それはどれも軽いもので、軽いものは軽いものとしての理解の得難さがあって、それゆえに苦しいこともあるけれど、まだまだ楽をして生きていると思います。重度の障害を持つ虚弱体質の相方さんは、生きること自体がチャレンジの毎日です。そういう、社会的弱者の声は、テレビではなかなか世間に届けられません。大多数に属しない私や息子や相方さんは、今の日本の社会での生きづらさを日々、感じ、いろいろな場所で思いを伝え続けているのです。と言いながら、私は元夫の親友の実家で、私や息子の偏りやその難しさについて、話をすることができませんでした。でもそれも、今の日本の社会を生きる上での知恵だと私は思っています。何でもかんでもわかってほしいというのだけが全てではない。むしろ、偏見や無理解に対するスルーする力も、生きていくには必要なのかもな。その上で、周りに対して寛容な心を持つことの大切さを心に刻む夜でした。