大東亜戦争:終戦60周年記念ブログ
Amebaでブログを始めよう!

死ぬべくは・・・

死ぬべくは戦の大野 生くべくは光あふるゝかの愛の国

黒髪長き佳き人の 姿はみえて海は鳴る

嵐にも咲け その花よ 潔く すずしくいつまでも

第2艦隊司令長官 
中将 伊藤整一

昭和20年4月7日 坊ノ岬沖海戦 戦艦大和にて戦死

日本兵生存

大東亜戦争に敗退するまで5月27日は「海軍記念日」と制定されていました。
日露戦争で日本帝国海軍がバルチック艦隊を撃ち破った日本海海戦を記念して制定されたものでした。
その5月27日の今日、産経新聞の一面に記された見出しに驚かされました。
『比で旧日本兵数人生存』

大東亜戦争は、すでに過去の歴史とされる現在の中にタイムカプセルが到来したかのような出来事に世間は大騒ぎとなっている。

しかし、彼らの意識の中ではまさに「大東亜戦争」の真っ只中に生きられているというような感覚ではないでしょうか。
戦争は、まだ終わっていないのです。

彼らの今日までの奮闘を讃え、ご希望通り祖国日本へ帰還されることを願って已みません。

機密第二六一九一七番電について③

特攻を語るうえで、大西瀧治郎中将は「特攻の産みの親」と言われている。

大西瀧治郎中将は第1航空艦隊司令長官に就任早々、特攻隊を編成し指揮を執った。司令長官就任は、昭和19年10月20日となっているが、実質的には10月19日にフィリピン・マバラカットにおいて特攻隊の編成を指揮している。
それ以降、航空機を用いた「特攻」といわれる必殺必中の体当たり攻撃が展開されて行くことになった。

あの時期のフィリピンにおける神風特別攻撃隊の編成と運用は、必然の結果であったような印象を受ける。フィリピンや台湾を死守するには、不足している航空兵力を有効且つ最大限に発揮する作戦が必要とされる。当然あの戦局においては起死回生の作戦が要求された。
そこで打ち出された「特攻」作戦は、元来「統率の外道」と言われながらも当時の戦況、兵力などを勘案すれば、むしろ、その作戦の立案・実施には整合性すら窺える。
その為か現在、「特攻」作戦がフィリピンで開始されたという事実には不思議と疑問が投げかけられていないように思う。

しかし、少し視点を変えて見ればどうであろうか。
単純に大西瀧治郎が1航艦の司令長官に就任していなければと考えた場合、果たして「特攻」作戦は実施されたであろうか。
巷で言われているように大西中将が「特攻」作戦の推進者であり立役者と考えるならば、逆に大西瀧治郎なき1航艦では「特攻」は実施されることはなかったのではないかとも想像できる。
戦史に「if」を用いて論じれば、架空戦記のようになり、単に取り留めのない空論に転じてしまうことが多々あるが、そう思わせるほど「大西瀧治郎」は「特攻」に関しては絶対的な影響力を与えた人物のように見える。それが故に「特攻」に対しての軍令部の影は薄いようにも感じる。
しかし、「特攻」には軍令部が深く関与していることは疑いようのない事実である。
「特攻」作戦は、大西瀧治郎の主張に軍令部が追随した結果がもたらしたもののように捉われがちであるが、果たしてそう言いきれるだろうか。

大西瀧治郎という大きな人物像の影で見え隠れする海軍上層部、如いては軍令部にあっては、「特攻」作戦の立案、展開については性急な検討がなされていたことであろう。
そう考えると、仮にあの時期、大西瀧治郎がフィリピンに赴かなかった場合でも「特攻」作戦が適用されていた可能性も十分ある。

通史では、1航艦司令長官としてフィリピンに向かう直前の大西瀧治郎中将が、軍令部総長官舎で航空機を用いた「体当たり攻撃」を進言したことが知られており、それが「特攻」作戦の立案・実施に繋がったとされている。
それが、事実であったとするならば、まさにそれは偶然から生まれた場面だったと言える。
そもそも当時、大西中将のフィリピンへの異動は予定外のことだった。
前任者だった1航艦の寺岡謹平司令長官が、ダバオ水鳥事件やセブでの航空機損失などの責任をとる形で、着任僅か2ヶ月余りで転出することになり、急遽その後任となったのが大西瀧治郎であった。

あの局面で、偶然の人事がもたらした大西瀧治郎のフィリピン登場が少なからずとも「特攻」の実施に影響を与えたことは事実であろう。
しかし、当時の戦局を見ればフィリピンで「特攻」作戦へ踏み切ったことは必然の極みだったように思えてならない。
もはや、あの寺岡謹平中将の更迭劇という偶然の人事異動がなければ、フィリピンにおける「特攻」作戦は実施されなかったと見るほうが不自然のような気さえする。
軍令部においては、早かれ遅かれ、すでに「特攻」は実施されるべく計画されていたように思える。それは、時期を逸せず開始された陸軍の「特攻」を見ても窺える。
当時、大西中将だけでなく、知られているところでは岡村基春大佐や城英一郎大佐などからも航空機による体当たり攻撃の進言が軍上層部に成されている。
そのことから考えても、早い時期から軍令部は実用機をもっての特攻を視野に入れた作戦を計画していたのではなかろうか。

ただし、寺岡中将の更迭がなければ「特攻」作戦の開始時期は遅れた可能性はあろう。寺岡長官も2航艦の福留長官も「体当たり」攻撃には消極的な姿勢であったため、「特攻」作戦の運用には抵抗することが十分予想される。
また、ダバオやセブの失敗がなければ一時的に戦況を挽回、あるいは形勢維持ができていた可能性があるわけだから、「特攻」という最後の手段は当然見送られていたことだろう。

やがて、親兄弟、故郷を想う多くの若き搭乗員たちが、「特攻」の名の下に異国の空や海で散華していった。
その根幹とも言える、「特攻」作戦の立案や計画については多くの謎が残されているように思う。

大西瀧治郎中将の1航艦への異動という「偶然」が無かったなら、「特攻」作戦はいったい何時、どのタイミングで打ち出される計画だったのか、今となっては知るすべも無い。

知覧の桜-2

人の世は別れるものと知りながら
 別れはなどてかくも悲しき


第五六振武隊々長
上原良司大尉(22歳:長野県出身)
昭和20年5月11日出撃戦死



岩が根も砕けざらめや武士の
 国の為にと思ひ切る太刀


第二七振武隊
熊沢弘之大尉(22歳:愛知県出身)
昭和20年6月22日出撃戦死  

機密第二六一九一七番電について②

機密第二六一九一七番電電文の
『神風隊攻撃ノ發表ハ全軍ノ士氣昂揚竝ビニ國民戰意振作ニ・・・』
にある「神風隊」(シンプウタイ)とは、いつ誰が名付けたものだろうか。

定説では、1航艦先任参謀だった猪口力平大佐となっているが果たしてそうなのであろうか?自身が戦後に著した「神風特別攻撃隊の記録」にも明記されているが故に、否定するまでもない話なのかもしれない。
しかし、それでは説明のつかないのが「機密第二六一九一七番電」である。
電文の起案日が10月13日と明記されている以上、「神風隊」という名称はすでに決定されていたということになる。
つまりマバラカット(第201航空隊本部)で、10月19日深夜に猪口大佐が命名したという話には矛盾が生じる。

源田氏起案の電文「起案日」と猪口力平氏の「記憶」のいずれが真実なのか?

これは、終戦まで続行された「特別攻撃」作戦の根幹部分であり、戦史という視点から見ても重要な場面のように思える。

今、「呉」は大和で熱い

かつての軍港の町「呉」は今、「戦艦大和」に沸いている。

4月には大和ミュージアムがオープンした。
当時、世界に誇る、巨大戦艦として誕生した大和。
しかし、時代は大艦巨砲から航空機へと移り変わりつつあった。
活躍の場を失った大和は、遂に死地を求めた特攻出撃を余儀なくされた。

昭和20年4月7日、沖縄へ向けて最期の出撃をした大和は、米軍機の猛攻を受け、2740人の乗員と共に南海の海に果てた。
それから60年、日本人の心に様々な形で「大和」が甦ってきたような気がる。
また、大和ミュージアム開館の余波が、海上自衛隊呉地方隊のFバースにも現れているようで、先ごろの護衛艦見学には600人もの見学者が詰め掛けたという。

「男たちの大和」ならぬ「男たちの呉」が今、熱いようである。 

「機密第二六一九一七番電」について

「機密第二六一九一七番電」〔軍極秘・親展・緊急〕は、昭和19年10月13日に起案され、10月26日に軍令部から1航艦宛てに発信されている。


通称、「源田電報」とも言われるこの電文は、戦後様々な憶測を呼ぶことになった。最も問題なのは起案日が【10月13日】とされていることである。

[通説では・・・]
「神風」という名は、当時、1航艦先任参謀だった猪口力平大佐が10月19日に大西瀧治郎中将に進言し、命名に至ったと猪口氏自身が戦後に著書などで証言している。
また、敷島隊や朝日隊など各隊の名は、本居宣長が詠んだ歌「敷島の大和心を人問はば 朝日に匂ふ山櫻花」から大西中将が名付けたといわれている。

そして、10月20日に敷島、大和、朝日、山櫻隊が編成され、正式には10月25日が初の特別攻撃(敷島隊)による戦果が確認されている。

[問題点]
ところが、10月13日に起案された電文には、すでに「神風」や「敷島」「朝日」の名が出ているのである。
起案日が実際に10月13日であれば、軍令部は早い段階から特攻隊の編成に深く関与していた可能性が考えられる。
大西中将が第一航空艦隊司令長官としてマニラに赴任する前に軍令部との間で「特攻作戦」についての打ち合わせが行われていたと考えても不自然ではない。
本来、1航艦や2航艦の独断で特攻作戦が立案・実行されることなどあり得ない。必然的に軍令部が関与していることは想像に難くない。
その意味でも機密第二六一九一七番電はそれを裏付ける物的証拠となる。
ただし、起案日に間違いがなければという条件がつく。

真実はどうだったのか謎が深まるばかりである。


機密第二六一九一七番電 (以下が電文の内容)

『神風隊攻撃ノ發表ハ全軍ノ士氣昂揚竝ビニ國民戰意振作ニ至大ノ關係有ル處 各隊攻撃實施ノ都度 純忠ノ至誠ニ報イ攻撃隊名(敷島隊、朝日隊等々)ヲモ併セ適當ノ時機ニ發表ノコトニ取計ヒ度処貴見至急承知致度』

海軍戦闘機隊、菅野直大尉のこと

昭和20年、大村でT大尉(戦闘機搭乗員)と久々に再会した菅野大尉のエピソード。

「T、特攻隊なんか行くなよ!戦闘機乗りは、敵機とわたりあって空を制圧するのが本来の役割なんだ。爆弾抱いて船を攻撃するのは艦爆や艦攻の仕事だ。戦闘機が爆弾抱いて船に突っ込むなんて邪道だ」

海兵の後輩にあたるT大尉は、「もっともです」と答えた。
しかし、T大尉はすでに特攻隊の一員として、出撃するまでの間、隊員の訓練を実施する立場にあった。遂にそのことは、菅野大尉に告げることはできなかった。

この時、T大尉は菅野大尉からB-29に対する直上前方攻撃(菅野大尉は、直上方攻撃とは言わなかったという)法も教わったという。


このエピソードからは、菅野大尉の特攻に対する想いを垣間見ることができる。
201空や343空時代、菅野大尉が特攻を賛否したような発言は聞こえてこない。
どちらかと言えば、フィリピンで関大尉が特攻に指名された際、もし菅野大尉がその場に居合わせたら(零戦輸送のため内地に帰っていた)自らが志願していただろうと言われるほどで、特攻に対して否定的であったという印象は無い。

それだけに、興味深い証言に思える。

知覧の桜-1

昭和20年春、知覧から多くの特攻隊員が飛び立ちました。

彼らの残した言葉には涙を禁じ得ません。
ここでは、その一部を紹介いたします。


召され来て空の護りに花と散る
  今日の佳き日に逢ふぞうれしき


来る年も咲きて匂へよ桜花
  われなきあとも大和島根に


第六五振武隊々長
桂 正大尉(21歳:石川県出身)
昭和20年4月11日出撃戦死

戦艦大和

今月、広島県呉市に大和ミュージアムがオープンした。
また、12月には映画「男たちの大和」が公開される。

日本海軍の象徴として語り継がれてきた『戦艦大和』が今、
注目を集めている。

今年は、大和沈没後60回目の春を迎えた。
この節目の年に日本人の心に「大和」が甦ってきたように思える。