今現在、8.5億人が飢餓に苦しんでおります。
だからナニ? と書くとヒンシュク買うでしょうが
これが自分自身とどう関わるのか?
少なくともわたしは飢餓でくるしんではいません。成人病で苦しんでます。
先進国でも1,570万人が栄養不足だそうです。
餓死は日本にはほとんどいないと思われるでしょうが、そうではないのかもしれません。
数年前、生活保護を打ち切られて、おにぎり食べたいと書き残して餓死したひともおります。これはマスコミによってマヌケあつかいされました。わたしは抗議の自殺だと思っています。
自殺は認定されたのは3万人ですが、実際の不審死は14万人でその半数は自殺と思われます。つまり10万人が自殺していることになります。
見解として、
目の前に飢餓でくるしむ人がいなければわたしには遠い問題です。
金もないのに子どもをつくるからだとか、政情不安な国に生まれたのだから彼らはしかたないとかおもいません
地球は70億の人間っを養えないんだから飢餓はしかたないとか、遺伝子組み換え食品をもっとつくって食えばいい?とかそういう風には思いません。
ガザで殺された民間人や子どもたしは悲惨とは思いますが、遠い話です。
早くそういうことがなくなればいいと思いますが、私がそのような問題を解決するぞとは思っていません。
でも、かれらは飢餓で苦しみ、わたしは金もないのに成人病で飽食です。
今かれらは飢餓でくるしんでいるが、わたしはそうでない。彼らの国を搾取しているのはわたしの国そのほかだけど、わたしではない。でも、わたしはその恩恵にあずかっている。だからわたしの国に対してやるべきことがある。
でもなにもしてません。
今の私は募金くらいはできるのでしましょうか というところですが、実際には募金団体に不満があるので募金はしません。
いつわたしが飢餓でくるしむかはわからないけど、わたしは今はくるしんでない。わたしにそのときが来たら苦しむだろう。
戦争で殺されるのも殺すのも民衆だけ
民衆同士は憎しみはないのに、
民衆同士を憎み合わせようとするのがマスコミや政治団体
そういう態度は障害者とかかわるときも同じです。
つい最近も目の見えないひとが白杖をひっかけて人を転ばしたら、そのひとが殴ったとかいう事件ありましたね。通勤のいそがしいときに迷惑という意見多いです。
実際にわたしも急いでいるときに、エレベーターで車いすのひとが前にいると邪魔だから、先にさっさと出たいのです。向こうから助けを求めなければ、助けてあげることはほとんどしません。
自分がなにを大切にして生きているのかもわかっていない。
そういう人間がわたしです。
しかし、上記は結局、
国家や独善的な個人主義という垣根の中にわたしがいて安穏なおしゃべりしているにすぎません。どうしてかというと国家を超えた民衆レベルでの人と人のつながりというものを意識できないのです。
民衆は戦争なんかしたくないし、競争もしたくない。
民衆は国家や互いを差別し合う個人主義を超えているはずです。国家や自分だけよければいいという意味での個人主義によって隔てられているだけです。
このグローバルな時代には国家を超えてつながることが必要になってきています。そのような視座をもって共に生きるためにつながりあう民衆の一人としての自覚がたりないのです。
その自覚を持って、だからどうするの? それはわからないのですが、まずはその自覚を持ってみないとわからないし、なにもはじまらないです。その自覚があれば、その人の存在のありようがまったく変わっていくことでしょう。そのとき人にはまったく違う認識と行動が起きるのかもしれません。
この世界のほかにほかの世界は存在しない(サルトル)
差別するな、孤立するな
(この文章は菅孝行氏の『感性からの自由を求めて』を読み始めて、刺激されたことが契機となっていますが、まだ数頁しか読んでないのでその本の内容を合致するかどうかわかりません。とりあえず読み始めた自分のメモとして)