今日、郵便局でレターパックを出した。

レターパックは3センチ以内のものを利用している。

郵便局の窓口にはそれ専用の通しがあって

窓口の女は何度も何度もわたしの荷物を通していた。

どうもすんなりは通らないようだ。

しかし3センチ以内なので渡欧に決まっている。

ただギリだと通しにくいようだ。

でも三センチの通しを通るのだからさっさと受付るべきだと思う。

ただの受付で通しも通るのにこの女は結局なにがしたいのだろう。

意地悪いだけなのだ。なんとかうまく通らない結果が欲しくて何度も通している。

結局は受けたくないようで自分でポストに入れてくれという。

「あんた意地が悪いねえ」と大声で言ってやろうかと思った。

あほらしいのでいわなかったけど、これからはがんばって言おうと思う。

 

世の中にはたんに意地悪いひとがいる。

とくになんらかの窓口仕事をしている人に多い。

そんなひとはふだんからいろいろ痛めつけられているだろう。

かわいそうだけど、できれば

そんな人にはがんばっていやみの一つくらい言ってあげよう。

病気して入院してそれから・・・

 

 

なんも やる気も興味もなくしたんだけど

 

ふとこのブログを思い出した。

 

 

おお~~い

 

 

日 本は朝鮮戦争で50億ドルちかく、ベトナム戦争で65億ドルちかく稼いでいる。
他国とはいえ、戦争の犠牲になったのはいずれも私達とおなじ民間人と呼ばれ る人たち。
関係ないわけないじゃない。

高度成長期の日本の国民はそんなこと気付いていた。
そういうことに現在気付かなくなったのはなぜでしょうか? 

マスコ ミ政治家官僚財界のせい? それとも自分のせい? 

今現在、8.5億人が飢餓に苦しんでおります。

だからナニ? と書くとヒンシュク買うでしょうが
これが自分自身とどう関わるのか? 
少なくともわたしは飢餓でくるしんではいません。成人病で苦しんでます。

先進国でも1,570万人が栄養不足だそうです。
餓死は日本にはほとんどいないと思われるでしょうが、そうではないのかもしれません。
数年前、生活保護を打ち切られて、おにぎり食べたいと書き残して餓死したひともおります。これはマスコミによってマヌケあつかいされました。わたしは抗議の自殺だと思っています。
自殺は認定されたのは3万人ですが、実際の不審死は14万人でその半数は自殺と思われます。つまり10万人が自殺していることになります。

見解として、
目の前に飢餓でくるしむ人がいなければわたしには遠い問題です。
金もないのに子どもをつくるからだとか、政情不安な国に生まれたのだから彼らはしかたないとかおもいません
地球は70億の人間っを養えないんだから飢餓はしかたないとか、遺伝子組み換え食品をもっとつくって食えばいい?とかそういう風には思いません。
ガザで殺された民間人や子どもたしは悲惨とは思いますが、遠い話です。
早くそういうことがなくなればいいと思いますが、私がそのような問題を解決するぞとは思っていません。

でも、かれらは飢餓で苦しみ、わたしは金もないのに成人病で飽食です。
今かれらは飢餓でくるしんでいるが、わたしはそうでない。彼らの国を搾取しているのはわたしの国そのほかだけど、わたしではない。でも、わたしはその恩恵にあずかっている。だからわたしの国に対してやるべきことがある。
でもなにもしてません。
今の私は募金くらいはできるのでしましょうか というところですが、実際には募金団体に不満があるので募金はしません。

いつわたしが飢餓でくるしむかはわからないけど、わたしは今はくるしんでない。わたしにそのときが来たら苦しむだろう。

戦争で殺されるのも殺すのも民衆だけ
民衆同士は憎しみはないのに、 
民衆同士を憎み合わせようとするのがマスコミや政治団体

そういう態度は障害者とかかわるときも同じです。
つい最近も目の見えないひとが白杖をひっかけて人を転ばしたら、そのひとが殴ったとかいう事件ありましたね。通勤のいそがしいときに迷惑という意見多いです。
実際にわたしも急いでいるときに、エレベーターで車いすのひとが前にいると邪魔だから、先にさっさと出たいのです。向こうから助けを求めなければ、助けてあげることはほとんどしません。

自分がなにを大切にして生きているのかもわかっていない。
そういう人間がわたしです。

しかし、上記は結局、
国家や独善的な個人主義という垣根の中にわたしがいて安穏なおしゃべりしているにすぎません。どうしてかというと国家を超えた民衆レベルでの人と人のつながりというものを意識できないのです。

民衆は戦争なんかしたくないし、競争もしたくない。

民衆は国家や互いを差別し合う個人主義を超えているはずです。国家や自分だけよければいいという意味での個人主義によって隔てられているだけです。
このグローバルな時代には国家を超えてつながることが必要になってきています。そのような視座をもって共に生きるためにつながりあう民衆の一人としての自覚がたりないのです。
その自覚を持って、だからどうするの? それはわからないのですが、まずはその自覚を持ってみないとわからないし、なにもはじまらないです。その自覚があれば、その人の存在のありようがまったく変わっていくことでしょう。そのとき人にはまったく違う認識と行動が起きるのかもしれません。

 この世界のほかにほかの世界は存在しない(サルトル)
 差別するな、孤立するな

(この文章は菅孝行氏の『感性からの自由を求めて』を読み始めて、刺激されたことが契機となっていますが、まだ数頁しか読んでないのでその本の内容を合致するかどうかわかりません。とりあえず読み始めた自分のメモとして)

狂犬の町  


  ときどき僕はこの世から消えてしまいたくなる。消え去れない以上、僕はどうしようもなく醜悪で、罪深く、呪われてしまっている。
 そんな日は完全に鬱で人間と喋る気になれない。なんとかバランスを保って仕事を無事に終える。しかし、そのまま家には帰れそうにない。すでに消 耗は激しく、足を前に運ぶことすら辛い。だから意志のない操り人形のように機械的に右足左足を交互に前に出して進む。一歩一歩、醜く疲れて蔑まれて、呪わ れたミミズのようにのろのろ進んでゆく。
 電車に乗れば手で顔を覆い、情けない酔っ払いのように、扉の隅っこに伏せながら、動かない。途中下車したら、もう二度と電車に乗る気力はないだろう。やっと駅に着くとあらゆる人に追い越されて、一番最後に、駅の階段を降りる。まるで飴色の液が垂れてゆくように一段一段。
 ようやく駅を出て空の下。何度も足が止まりそうになる。何とか人気のない所まで頑張り、ついにそのまま倒れるように寝ころぶ。ここ数年はベンチとか植え込みとかじゃなくて、公園の中の、人の通らない道の上か、芝を張った地面の上のどちらか。
 それから眼を瞑ってしばらく休息を取る。夜の空気が身体の中に入るのを感じる。空を見ながら地球が動いているのを感じる。地面が僕をしっかりと 支えてくれるのを感じる。少しの間、眠ってしまう時もある。何も考えず、死んだように動かない。二時間か、三時間してようやく回復する。
 回復するが快癒ではない。それはまた何ヵ月かしてやって来る。この制御不能で存在論的に呪われた感情はどうして湧いてくるのだろう。わからな い…わからないけれどこの感情をそれと最初に気づいたのは七歳の頃だと思う。それは、七歳の頃読んだ怖い怖いマンガ、石森章太郎の『狂犬』のラストの町の 強烈な印象と結びついている。『狂犬』の主人公である少年は火の見櫓から落ちた時に、そのショックで彼の悪い心だけが彼から飛び出し、そばにいた野良犬の 中に入ってしまう。そしてその野良犬が街の人々を一人残らず消してしまうのだ。最後に真実を知った少年の姉は彼の心を信じ自らを彼にゆだねる。少年は野良 犬の中の悪い心を制御することができず最後の一人であり最愛の姉をも消してしまう。ついに自分のほかには人間が誰一人いなくなってしまった町。悲しみに沈 む少年に野良犬は「なぜ泣くのだ。これはお前が望んだ世界じゃないか。」とテレパシーで彼に話しかけるのだ。
  今日、僕のまわりに「人間」は一人もいなかった。もしかすると僕は、七歳の頃からずっとひとりぼっちのまま、狂犬の町で生きて来たのかもしれない。(1994/10)