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ボチボチ曖昧模糊な日々(適当男の感謝、喜び、笑顔)

たいした生き方なんぞは出来ておりません。
そんな、適当で雑な男なりに人生観を語ってみようという、ブログです。

最近、人生とは関係なく画像の紹介が増えて来ました。




《異端でも良いじゃないか❗️》


大阪に居る娘からLINEが来た。
娘が高校時代から飼っている、《ちくわ》と言う名のワンコの調子が良くないらしい。

天理教の信仰者しか理解し難い内容であるが、天理教の救済方法として、《おつとめ》と《おさづけ》があり、《おつとめ》は総ての祈りは念ずることは出来るが、《おさづけ》の相手は人間のみであり、自分への祈りはせず、病んでる相手に対してさせていただくと教えられています。



今回の対象はワンコである。
しかし、長年家族同様に暮らして来たワンコが病んでいる。
死も感じたのだろう。
娘なりに苦しんだ末にLINEを送って来たのだと思うと、これは杓子定規に扱うと、娘が悲しむだけで、娘の心に穴が空いてしまうかも知れない。

そんな訳で、私なりの教えの解釈を送ることにした。

この世は神の世界であり、人間様だけが君臨しているわけではない。


総ての生き物に神の想いが込められて生存しているのだ。


「人間だけたすけたい」なんて、そんなちっぽけな神ではない。


天然自然の摂理、法則の中で、生命が誕生し、進化を遂げながら、総ての生き物が共存している。それは空気や水や山の木々も同様であろう。



そうしたレベルから思案すると、人間だけにおさづけを取り次ぐなどと言う教えは、ミクロの世界ほどに小さく見えて来る。

もちろん、「そんな教えはない!」と天理教人達は反論するだろう。


「それでも天理教の会長か!」と言う人もいることだろう。

ワンコのこともそうだが、この件で娘の心に明るさが生まれたなら、それは《おたすけ》と呼べないだろうか?


「呼ばない!」と言われたら、


「あゝそうでっか」と答えてはおくが、改める気は「さらにないぞや