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  ​今日まで生きてきた私へ


心が不安定になって、悲しくなくても涙が出ることを知った。

というより、常に気分が落ち込んで、何も楽しいと思えない日々の辛さを知った。


私が生きてきた時間に、何か意味があったのか。

私が生きていることに、何か意味はあるのか。


誰も教えてくれないし、誰にもわからないこの問を抱えながら、みな生きている。


朔太郎の詩集『月に吠える』の序文にこんな言葉がある。

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 人間は一人一人にちがつた肉体と、ちがつた神経とをもつて居る。我のかなしみは彼のかなしみではない。彼のよろこびは我のよろこびではない。

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自分の苦しみは自分にしかわからないし、誰かが共感出来るわけもない。共感して欲しくもない。

それは同情であって、その人のエゴであって、愛ではない。


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『どういふわけでうれしい?』といふ質問に対して人は容易にその理由を説明することができる。けれども『どういふ工合にうれしい』といふ問に対しては何ぴともたやすくその心理を説明することは出来ない。

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悩んで追い詰められていたときに、ネットで、精神科か何かの医師が「人に自分の悩みを相談できない人が多すぎる、全く呆れる」と言ったような趣旨の発言をしているのを見た。私からすると、ホイホイと深く悩んでいることを相談する人って、本当に悩んでいるの?と思うのだが。


人に悩みを打ち明けるのは難しい。労力もいる。

相手がいるということは、どうしたら伝わるのかを考えながら話さなければいけないし、相手が嫌じゃないかを気にしなければいけない。いや、そもそも、朔太郎が言っているように、「自分の悩みを言語化する難しさ」に直面することになる。これはとても難題だ。二重三重に苦労しなければいけない。しかもその結果、何かが解決するかと言ったら、大抵は解決しない。同情されたり、慰められたりして終わりだ。何にもならない。


つらいとき、頼れるべき人は誰でもない自分自身である。そして自分以外に存在しない。

もし存在するとしたら、それはとても幸運なことだ。

愛すべき家族、恋人、友人。

自分以外に一人ても頼れる人がいたら…。


苦しいときに、先の精神科だか何かの発言を見て更に心が削られながらも見つけたブログがあった。

今日まで生きたあなたに敬意を示す、と書いてあった。

私はそのブログに深く助けられ、今でも辛いときは読むようにしている。


明日明後日、1年後、3年後、10年後、私がどう生きているのか、幸せか苦しんでいるか、そもそも生きているか、何もわからない。


けど、私は今日も生きている。


苦しみもがき涙を流しながらも一分一秒を必死に生きている。

この事実に私も私自身に敬意を示したい。


過去の私へ。

貴方は必死に生きてきた。

つらいこともたくさんあった。幸せと思えないかもしれない。けど生きていた。

今はただ、その事実だけに目を向けて、敬意を示したい。


未来の私へ。

辛いときは過去の私に目を向けて欲しい。

貴方はたくさん乗り越えてきた。

だから今も乗り越えろ、と言いたいわけではない。

あなたの好きなように人生を歩んで欲しい。

大切な人は傷つけず、自分も傷つけず、上手く折り合いをつけながら、悩みながら。

つらかったら、休んで欲しい。

苦しかったら、泣いて欲しい。

自分のために、生きて欲しい。


好きなことを思い出して、ゆっくり楽しんで。

どうせ後悔だらけの人生なんだ、気負わずに、ただ時を過ごして暮れればそれで、多分大丈夫だから。