なぜ【ギャンブル依存症】というものが、人に迷惑をかけることで問題になっているにも関わらず、ギャンブルはなくならないのか?

パチンコ・パチスロ、公営ギャンブル、全体的な売り上げは減ってきているとはいえ、未だになくなる気配はない。

さらには政府がカジノ法案を成立させ、いよいよ2025年頃に日本にもカジノが登場するようだ。

人間まじめに仕事をして収入を得ていれば、生活にはさほど困らないはずなのに、大抵の人がギャンブルに手を出す。

それはなぜか?人は楽に贅沢をして暮らしたいからである。

普通のギャンブルは低俗な感じがして嫌いだという人でも、どういうわけか宝くじだけは買うという人もいる。

本人いわく宝くじには夢があるそうだ。

一攫千金を夢見て宝くじを買うのだろうが、私から言わせれば宝くじも立派なギャンブルである。

これは私の持論に過ぎないかもしれないが、どんな手段であれマイナスになることを覚悟のうえで、お金を増やそうとする行為は全てギャンブルである。

その意味で言えば、株やFXもギャンブルとなる。

株は、一定以上の資産を持っている人がやる投資だというのが一般的な解釈だが、これも私から言わせればギャンブルの一種である。

それらは先を見越して売買すれば、100%儲かるという人もいるようだが、未だかつてそれだけで生活している人というのは、聞いたことがない。

株は基本的にお金持ちがやることだが、お金持ちなら生活には困らないはずである。それなのに、なぜ株に手を出すのか?

その理由は、さらなる贅沢をしたいのと、銀行が破綻した場合の補填もあるし、空き巣や強盗などの被害に遭った場合などの万一の備えとしているのである。

他には寄付をする目的もある。

人間の経済的欲求にはキリがない。

お金持ちほどお金を増やしたくなるというのは、よくある話である。

だが、それにしてもどういうわけか、普通のギャンブルに対する【パチンコ・パチスロ依存症】という言葉はあっても、【宝くじ依存症】とか【株依存症】という言葉はあまり聞かない。

人は楽に稼ぎたい生き物だ。

真面目に見える人でさえ、宝くじが当たったら仕事を辞めるだろう。そして当選金で生活をしていく。

ついでに還元率というものを教えておこう。

還元率というのは、全体の売り上げに対して、どの位の割合で払い戻されるかの目安である。

それは高い順に、パチンコ・パチスロが店にもよるが約85%、公営ギャンブルが約75%、宝くじに至っては50%未満しかない。

宝くじで一攫千金を夢見ている人は、還元率が低いという事実を知っているのだろうか?

なぜ人は他人をいじめたりするのであろうか?

それはおそらく、家庭や学校が楽しくなくてストレスがたまるからだと私は思う。
家庭や学校が楽しくて充実した日々を送っていれば、誰も他人をいじめようなどとは思わない。
他にも、いじめる対象のことが気に入らないからといった理由もあるだろう。
いじめというものは、いじめる側にもいじめられる側にも問題がある。
それはどんな問題か?
そのような人間に育ってしまっている問題である。
家庭や学校が楽しくなくて、うっぷんを晴らすために誰かをいじめようと考える。
誰かをいじめようという短絡的な考えに陥る原因は、親や教師の教育にある。
気が付いたであろう。
いじめの根本の原因は教育にあるのである。
「家庭や学校が楽しくない」→「ストレスがたまる」→「いじめの標的を探す」→「いじめを実行する」→「いじめられる側は 何も言えず誰にも相談できない」→「いじめが陰湿になったりエスカレートする」→「自殺してしまう」→「ストレスがたまったままだと、また新たないじめの標的を探す」という、悪循環が親や教師の知らないところで繰り広げられているのである。
このような悪循環の連鎖を断ち切るにはどうすればいいのだろうか?
まずは、家庭や学校が楽しいところだという認識を子供たちに植えつけることだ。
子供たちが楽しい気分になれば、自然とみんなが仲良くなり、いじめの問題は少なくなるはずである。
そして、たとえストレスがたまったとしても、「他人の気持ちを推し測る」という教育がしっかりとなされれば、世の中からいじめはなくなるはずだ。
もしも、自分が誰かからいじめられたら、どう思うか?どうするか?といった問いかけを子供にすることも大切だ。
ストレス解消をいじめに向けるのも、それ以外の方法を知らない、あるいは知っていてもやりたくないからであり、この点にも教育の問題がある。
それと、自分の子供がもしかしたらいじめの対象になっているとした場合、そのことをしっかりと親や教師に相談できる教育と環境づくりも大切である。
私にとっては、どう考えてもいじめの根本の原因は、教育にあるとしか思えない。
親や教師の教育がしっかりとしていれば、世の中からいじめ自体が消えるに違いない。
とりあえずストレス解消法に関しては、別の投稿【ストレスは適度に解消する】(個人)を参考にしていただきたい。

人は優しくされると、つい甘えたりだらけたりしてしまうものだ。

そうなると怠惰になってしまい、刺激も少なくなりやる気が出なくなる。だから優しくするのも程々にしよう。

極端な話かもしれないが、人は周りから優しく扱われているだけだと、自主的に行動できなくなってしまう。

相手が赤ん坊や乳幼児じゃあるまいし、必要以上に他人に優しい人は、少しは考えてみてはどうだろうか?

要するに、優しくすることはいいことだが、決して甘やかしてはいけないということだ。

そして、反対に人は厳しくされるとつい反発してしまう。

なぜ反発するのか?

それは大抵の場合、大人などいい歳をしていたら自分で分かっているからだ。

あなたは相手が「分かっていない」「できていない」と思うから厳しいことを言うのだろう。

しかし、相手が「分かっていてわざとしていない」場合や「したくない」場合はどうだろうか?

そういった相手の気持ちも考えずに、厳しいことばかりを言っていると、あなたはただの嫌な人になってしまうだろう。

更に言えば、常に厳しいことばかりを言っていると、相手から反発ではなく反感を買う羽目になってしまうかもしれない。

とりあえず「大人など」と書いたが、こういったことは子供でも意外と分かっていることが多いので、子供相手でも厳しくするのは程々にしておいた方がいい。

ちなみに、相手が大人でも子供でも、テスト等の結果を理由にして、優しくしたり厳しくしたりするようなことは絶対にしない方がいい。

その人の全てを決めるわけでもないことを理由に、あなたが態度を変えたりしようものなら、相手からすれば感じの悪い人に映ってしまうことは、ほぼ間違いない。


世の中にはどういうわけか、自分や他人に対してレッテルを貼る人がいる。

「レッテルを貼る」というのは、人のことを一方的に断定することである。

例えば、「さわやかな笑顔の人だから、優しいに違いない」とか「短気で怒りっぽい人だから、怖いに違いない」など、果たして本当にそうだろうか?

どんなに優しい人でも、不快な気分になって腹が立てば怒るはずだし、怒りっぽい人でも四六時中怒っているわけではない。いつも怒っていたら人間関係に支障を来してしまう。

だから、そういう人でも普段は人に優しくしているはずだ。

ということは、他人にレッテルを貼るという行為がいかに馬鹿げているかが分かるに違いない。

自分に貼るレッテルも、「仕事でミスをしたから、私はダメな人間だ」とか「約束の時間に遅れてしまったから、私はルーズな人間だ」などというものがある。

しかし、仕事にしろ約束にしろ、毎回同じ過ちを繰り返す人はいないはずだ。

これも他人にレッテルを貼るのと同じように馬鹿げている。

もう一度言うが、「レッテルを貼る」=「断定する」である。

確実な根拠があるわけでもないのに、こういったことをしてはならない。

自分に対してレッテルを貼ると、自信がなくなるか自信過剰になる。

他人に対してレッテルを貼ると、色眼鏡でしか人を見られなくなり、本質を見誤ってしまう。

だから、自分や他人にレッテルは貼らないようにしよう。

ちなみに、レッテルを貼る人に限って人生経験が足りない場合が多いので、そういう人は人生という名の勉強をしっかりとしてもらいたい。

そのためには、何事も恐れずに勇気を出すことが大切である。

最近の世の中は人を傷つけてはいけないという風潮にあるようだが、この考え方は正しくもあるし間違ってもいる。

正しいというのは、明らかに相手が傷つくと分かっているようなこと(身体的短所など)は言わないことだ。

なぜなら、簡単には直せないし本人も分かっているはずだから。

間違いというのは傷つくことが、相手の為になる場合もあるからだ。人によっては自分の欠点に気づいていないこともある。

本人に言わなければ分からない欠点を、傷つけるのを恐れるあまり、誰も指摘しなかったとしたらどうだろうか?

いつまで経っても直ることはないだろう。

おそらく今まで欠点を誰にも言われたことがない、そんな人が世間を震撼させるような事件を起こしてしまうのではないだろうか?私はそんな気がしてならない。

相手の欠点を教えてあげることで、初めて本人が気付き自分から直して行こうとするだろう。

こう言ったことも一つの優しさの形である。

例えば、私が実際に言われたこととして、子供の時に母親から「ハジメは字が汚いわね」と言われたことがある。

その時からなるべく丁寧に書くようにしていたら、大人になって「あなたは字がきれいですね!」と褒められたこともある。人生においては嫌なことばかりを言ったり言われたりするわけではない。その逆も然りだ。

この世の中というものは、見渡してみると相反するものが多いことに気付くはずだ。

どんなことでも良い方向ばかりを追いかけていたら、自分にとっても相手にとってもためにならない。

人間というものは良い部分や悪い部分を全部ひっくるめて、初めて人間としての個性や価値が生まれて来る。