自分がこの業界に入ったのが90年の4月。その時から叶わないと思っていたことが今年に入って2度、実現しました。

一つが「JAGATARA」に取材をすること。

もう一つが「JAGATARA」のガチのライヴを観ること、でした。

MUSICAで取材をしたのは去年の暮れで、OTOさんと所謂スカイプ的なもので2時間みっちり話をしたものを、今発売中のMUSICAで6ページにわたって掲載しています。この号の表紙はKing-Gnuで、JAGATARAの前のページにはGEZANの取材が掲載されています。この表紙と、このバンドの並びにJAGATARAがいることがとても自分にとっては重要で、何しろ嬉しかったんです。

実は今回のJagatara2020の取材が行われたきっかけは、Facebookでした。復活して新しい楽曲をレコーディングし、その音源を引っ提げてのライヴを行うというニュースを見て、狂喜乱舞しながら朝までワインを呑んでJAGATARAを聴きまくったことをFacebookに喜びと共に投稿したら、それをご覧になったP-VINEの石崎さんが動いてくださって取材が実現したのです。

本当に本当にありがとうございました。この尺度が正しいのかどうかわかりませんが、最大公約数的な尺度として例を挙げるならば、ミック・ジャガー、キース・リチャーズ、ニール・ヤング、ジョー・ストラマー、ポール・ウェラー、クリス・マーチンなどに取材をした時の何百倍も緊張しましたし、達成感がありました。

 

是非是非、読んでみてください。

 

ライヴは先日、1月27日に渋谷クアトロで見ました。なんか嬉しかった。願わくば、大学の学祭、もしくは芝浦のインクスティックというクラブ&ライヴハウスで見たかったのですが、今の大学生でJAGATARAを知っている人は少ないだろうし、インクスティックはもうないです。つまり、無理なことを考えると、渋谷のクアトロは最高のロケーションでした。

バンドメンバーは3時間半以上、アンコールで一度下がった以外、1度もインターバル無しのライヴ!? しかも、ゲストとして、鮎川誠、近田春夫、こだま和文、田口トモロヲ、不破大輔、いとうせいこう、町田康、高田エージ、吹越満、大槻ケンヂ、向井秀徳、永山愛樹、七尾旅人、折坂悠太、、、、、。凄かった。凄いロックの人民祭、つまりロックフェスでした。

とんでもなく素敵な、生きていてよかったと大袈裟でもなんでもなく思う時間でした。

 

個人的にはOTOさんのプレイが以前以上に雄弁になっていたり、あんな奥手なパフォーマーだったEBBYさんが前のめりなプレイをするとか、時が経った楽しさを何十回も覚えましたし、ゲストに関してもそれぞれ感動ポイントがあったのですが、敢えてあげるなら、町田康の痙攣のかっこよさと、近田春夫のシンセから飛び出て来た音のセンスのエッジ感に、感動以上の感動を覚えました。

 

あー、楽しかった。

本当に達成感だらけの取材、そしてライヴでした。

 

何故こんなにも自分がJAGATARAに拘るのか? 理由は明確に2つあって、それは短い説明で済むものと、長い説明が必要なものがあります。

 

まず短いものから。

 

僕は89年の春にマスコミ業界に就職し、90年の春に音楽マスコミ、つまりロッキング・オンに入社しました。ロッキング・オンを受けたきっかけは、Cutという雑誌の創刊号を書店で見て、そこに正社員募集があったからです。ウイキペディアを見たら、どうやら89年の暮れに発売されていそうだから、その頃に僕は受けて、90年の割と早い時期に採用が決定し、春からロッキング・オンに転職しました。

その採用試験の最終で1つの質問がありました。

 

「あなたは日本のロックはどういうものが好きですか?」

それに対する僕の答えは「暗黒大陸じゃがたらと、米米CLUBしか聴きません」、でした。

 

ある意味、というかこれははっきりと質問者の期待を裏切る答えです。

でも当時は本当にそうだったのです。しかも僕がロッキング・オンという会社でやりたかったことはCutというサブカル雑誌で編集をすることで、音楽雑誌を編集することではありませんでした。そのスタンスを明確にするためにもストレートに答えたのです。

そして僕はその試験の何日後に採用の連絡を受けました。そしてそこでロッキング・オン・ジャパンという今まで2回しか購入したことがない(洋楽のロッキング・オンは、100冊以上は購入していたと思います)雑誌の編集をすることになったのです。

これを読んで暮れている方は、だったら何故断らなかった?と思うかもしれません。ただ、僕は明確に転職したい理由があったので、飛び込みました。

しかし、自分が転職する春の前に、JAGATARAの江戸アケミは亡くなってしまったのです。そして解散。

自分のモチベーションの大きな星が消えました。これは途轍もない絶望でした。取材することどころか、もうライヴが見れないと思ったからです。実際、その後もベースのなべちゃんが亡くなったり、JAGATARAはどんどん遠くなり、そんな自分がこの業界に入った頃のことすら忘れがちになった今、こうやってJagatara2020としてJAGATARAと出会えた喜びは、人生に刻むべき大事な大事なメモになったと思っています。

 

もう1つの理由はもっと長いですが、きっとこちらの方が音楽ファンにとっては面白いエピソード、読み物だと思うので、お時間ある方は読んでくださいませ。

 

あれは多分1981年の高校2年時。2学期が始まってからだと思います。

我が母校、鎌倉学園高等学校。堺正章、桑田佳祐、タイガースの代打のカリスマ竹之内雅史を輩出した鎌学に、春から漢文の先生として新しく来られた「吉野先生」が突然、黒板にレ点を描きながら、「うぉぃへぇ!」的な奇声を発しました。

そして唖然とした僕らに向かって5秒後、「これは言葉ではありません。ノイズです」と言い放って、また授業に戻ったのです。そして授業が終わった直後に、「ロックが好きな生徒は、放課後に職員室にきてください」と一言残して先生は教室を去って行きました。

当時、クラスの中でロックが好きだったのは5人ほどかな? 隣のクラスにも同じ類の人はいて、何人かで吉野先生のところへ行きました。

すると先生は僕らの人数分のドーナツ盤、つまり7インチのアナログレコードを出して、一人一人にくれたのです。見てみると、ジャケットの真ん中には、サングラスをかけた吉野先生がいました。

ジャケットをさらに見ました。そこには「吉野大作&プロスティチュート」と書いてありました。そう、このアナログ盤は、先生を中心としたバンドのものだったのです。

 

「先生、プロスティチュートって、、、、、、」

「はい、これは売春婦という意味ですね」

 

そこで僕らは絶句しながら「先生、めっちゃカッコいいーー〜〜」と一瞬でロックオンされました。

さらにジャケットを見ると、そこには「M.U.R.A.」という曲名がありました。

 

「先生、これはムラ? 村? って意味ですか?」

すると先生はこういったのです。

「違います。これはMy United Red Armyの略です」

 

この瞬間に、吉野先生の下に集まった何人かの人生が決まったというか、背筋を貫通しました。

「先生! 『私の連合赤軍』という曲ですか!!!」

「はい、そうです」

 

いやー、今でもこの瞬間を忘れません。

職員室で、「私の連合赤軍」という曲を作ったロックバンドのヴォーカリストが、そのことを淡々と高校生である僕らに伝えていったのです。

 

そしてその儀式の最後に、吉野先生はみんなにチケットをくれました。そのチケットは秋の横浜国立大学の学園祭のライヴのチケットでした。

そのチケットにはーー

ザ・スターリン

ばちかぶり

JAGATARA

と共に、吉野大作&プロスティチュートという名前が刻まれていたのです。

 

もう先生が凄すぎて、わけわかりませんでした。

 

当時、日本のアンダーグラウンドロックというものが湧き上がり、そこでは動物の生の頭や贓物を振り回したり、自らを切りつけて血だらけになったり、脱糞をしたり、とんでもないことがライヴハウスの中で起こっていて、それをフォーカスとかフライデーのような雑誌がショッキングな出来事として紹介していました。そこでスターリンやじゃがたらは格好のネタとなって、キワモノ扱いされながらも注目を浴びていたのです。

それらのザッツアンダーグラウンドのカリスマたちと一緒に、自分らの先生がステージに立つ。

信じられないほど、職員室の吉野先生は後光が射していました。僕らの中でこの日から吉野先生は先生ではなく「カリスマ吉野大作」、もしくは「売春婦を名乗る吉野大作」となったのです。

 

その時、職員室にいた中に、その後、Original Loveのオリジナルメンバーになる小里くんや、結成1年後に小里くんが連れてきたギタリストの村山くんがいました。そして小里くんと一緒にピッキーピクニックというシンセユニットを在学中からやり、漫画家の玖保キリコさんなどともコラボしていた伊達くんがいたと思います。

小里くんとは今もたまに会ったりしていますが、その後もコレクターズやセルフユニットでセンス溢れる作品を出しまくっています。

村山くんは全然会っていないけど、吉野大作さんから後年に聞いた話では、吉野さんの後を追ってか、漢文の予備校の先生になったとか。

伊達くんはだいぶ前に会った時に、敏腕メジャーレーベルのA&R?的な存在になっていて、マガジンハウスの何かの雑誌の何かの特集で自分の家が披露されていました。

3人とも、本当に高校の頃からずっとカッコ良くて、憧れの人でした。

そうそう、同級生にもムラという、一緒にバンドをやってくれた奴とか、鬼頭なのに亀頭と書かれ呼ばれていた奴がいて、ムラはその後にチャゲアスの制作をやっていい仕事をしていた。きっと今も頑張っていると思います。

 

横国でのライヴの前にもう1つだけ。

 

吉野先生は、82年の春に学校を辞めました。あれはわからないんだけど、学校も吉野さんをあっぶねーなーと思ったんじゃないかなと勝手に思ってます。

先生はパンクロッカーであることをカミングアウトしてから解放され、放課後に話をしていても過激派というか、急に隣校の放火事件の翌日に「鹿野くん、僕はあの放火の顛末を知っています。あれはある生徒がオナニーをしていて、そのオナニーがあまりにも壮絶なものだったので摩擦熱が起こってしまい、火がついたのです。で、その火を消化しようと彼はスペルマを火にかけたのですが、残念なことに水とは違うスペルマはまさに火に注ぐ油以上のパワーをもって、一気に学校を燃え尽くしました」とコソコソ話してくれたり、なんか凄い先生でした。

その後吉野大作さんは予備校の河合塾で全国的に有名なカリスマ漢文講師となり、流石だなあと思ったり。僕も96年だっけかな? ロッキング・オン・ジャパンで吉野大作&プロスティチュートに取材をさせてもらったり、何だか吉野大作先生と81年に会えたことの大きな因果を感じさせてもらいました。

 

で、ようやくJAGATARAの話です。

 

81年の秋の学祭でまず出てきたのは、写真週刊誌で変態的な人気があったスターリン。

なんか、瞬きすらできないほどライヴを見ながら硬直したのを覚えています。その頃までに見ていたクイーンやボストンなどのライヴとは全然違うライヴでした。確か当時までに、ジャムやクラッシュというUKパンクバンドの来日ライヴも見ていた気がするのですが、外国のメジャーパンクとも全然違う、本当に僕はここにいていいのでしょうか? 的なライヴを目の当たりにしたのです。

 

次はばちかぶり。

とにかく真ん中で歌っている田口トモロヲのテンションが凄くて。凄過ぎて。

なんかすぐに天に向かって唾を飛ばすんですよね。ライヴが終わった後で吉野大作さんにそのことを聞いたところ、この日のライヴのちょっと前まで、田口トモロヲさんはライヴで脱糞をし続け、ライヴのたびにライヴハウスを出禁となり、あまりにライヴができるライヴハウスがなくなったので、色々考えた結果、「下に向かってウンコを垂れるのがいけないことなら、上に向かって唾を吐こう」と決めたらしいです。

わけわかりませんが、カッコよかったんです。

 

そしてJAGATARAが登場しました。

当時すでにJAGATARAは、かなり増殖した人民祭的なバンドになっていて、ホーン隊もダンサー&コーラスも入って、多国籍音楽パンク&ファンクバンドとして、最高の「ショー」を披露しました。

僕は当時、世界で一番好きなバンドがトーキングヘッズで、彼らの「リメイン・イン・ライト」というアルバムを聴き狂っていました。このアルバムは、ロックバンドが本格的にアフリカンリズムや音楽を真っ向から導入した世界初のアルバム的な謳い文句があった大傑作で、もうダントツでカッコよかったんです。

僕は当時間ヶ月間か、このアルバムしか聴かない日々が続いたほど、そして今もこのアルバムが世界一のアルバムだと思っているほど好きで、そのトーキングヘッズ、「リメイン・イン・ライト」と同じ気配、匂い、音楽論法を持っていると個人的に感じた日本のバンドと初めて出会ったんです。それがその横浜国立大学でのJAGATARAだったんです。

 

いやー、最高だった。絶頂だった。あの日、本当に痛みに痺れるほど、何度も何度も家に帰ってからオナニーをしましたが、殆どはそのJAGATARAのライヴを喰らった衝動によるものでした。オナニーをしながら、師匠である吉野大作先生の顔が瞼に浮かんだことは一度もなかったですが、アケミちゃんは何度も浮かび、それでも僕はしごき続けました。

 

話を学祭に戻すと、ここまでの展開でわかるでしょうが、この学祭のトリは、なんと吉野大作&プロスティチュートだったんです。スターリン、ばちかぶり、JAGATARAを従えて、吉野先生がヘッドライナーを務めるーーーー。

とんでもない奇跡を目の当たりにしました。

先生もバンドもむちゃくちゃカッコよかったなあ。

さっき吉野さんの話はかなりしたので、ここではこれ以上は割愛しますが、とにかく僕らの先生がロックのヒーローとしてスポットライトを明確に浴びていたのです。

 

最高でした。

でも、その最高にイカしていた吉野先生のカッコよさ以上のものをあの日のJAGATARAは僕に授けました。

 

あの日からJAGATARAもその前身の暗黒大陸じゃがたらも財団法人じゃがたらも、全部聴きまくって興奮をし、その後何十回もライヴに行きました。

横浜のドヤ街でフリーライヴをやった時も、怖くて怖くて震えながら、その街に侵入し、その街に侵入するために持っているシャツを切ったり擦ったりしながら泥につけてワザと汚くして着用したり。

でも実際に街に入ってみると、そんなアホな服を着ている人は誰もいなくて、みんな笑って酒を飲んでいて、そこで見て聴いたJAGATARAは、このバンドが何なのかを本質的に教えてくれて、もっと好きになったり。以後、さらに本気で彼らのライヴの虜になりました。

 

作品も毎回素晴らしかったし、メジャーにも行ったし、メジャーに行っても裏切られたと思わなかったし、とにかく最高続きで。そんなJAGATARAに、日本のロックをほぼ聴いていなかった自分が雑誌を作ることでなにがしかの形で近づけるものかと思っていた時、アケミちゃんは死んでしまい、バンドは解散しました。

 

人間は生き返らないけど、バンドは生き返るし、そもそも音楽は死ぬこともないよね。

その絶対的な現実をなかなか感じることもないけど、今回本格的に復活を果たした「Jagatara2020」は、あらためて教えてくれました。

 

生きていてよかった。

この仕事をし続けてよかった。

本当によかった。

ありがとうございました。

いや、過去形はよくない。

ありがとうございます。