「余命7年」若き日の決意 | 国際そのほか速

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「余命7年」若き日の決意 

西室泰三 78 日本郵政社長

 

 <原因不明の病>

  •   東芝に入社した1961年頃、足を引きずるようになり、筋肉が萎縮する原因不明の病気と診断されました。

      医師から「7~8年しか生きられない」と宣告されました。人生で一番のショックでした。いくつも大学病院に行きましたが、同じでした。

      短い人生をどう過ごすか悩みました。幸い仕事は面白い。死んだ後で「もしあの人がいれば」と言われるように、何らかの貢献をしようと思い、仕事に打ち込む決意をしました。会社に泊まり込んで働きました。

      大学時代に留学して英語が話せたので、貿易部に配属されました。海外の取引先と交渉できるように、製品技術を上司が集中的に教えてくれました。新入社員には出来ない経験でした。

      入社5年目、ニューヨークに赴任します。体調は悪くなる一方でしたが、病気を隠して仕事に励みました。

      余命とされた時期が近づき、帰国を控えて米国の病院で再検査を受けると、手術で治る可能性があると言われました。成功率5%、8時間に及ぶ大手術は無事に終わり、寿命が延びました。

     <東証でシステム問題に直面する>

      東芝で社長になるとは考えもしませんでした。米国で家電の販売網を築くなど海外営業が長く、発電機やプラントなど本流の重電部門出身ではありません。足に障害も残っていました。

      就任した96年は、重電や家電の売上高が減りました。一方、半導体やパソコンなど情報通信部門が成長していました。技術革新が速く、意思決定に時間をかけると他社に遅れます。

      社内を別会社のように小分けする「社内カンパニー制」の導入を決めました。当時の会長を始め、取締役会で反対されましたが、ねばり強く説得し、認めてもらいました。

      経営の一線から退き、経団連で活動していた2005年、東京証券取引所の会長に就任しました。金融は詳しくありませんでしたが、財界代表で引き受けました。

      その年の12月、みずほ証券が株の誤発注で数百億円の損失を出しました。東証システムの欠陥が判明し、社長が引責辞任したため、急きょ、社長を兼務しました。翌年のライブドア事件では注文が殺到して処理能力を超え、全銘柄の取引が停止しました。

      システムの改善が急務だと判断しました。外部から初めてCIO※(最高情報責任者)を招き、数百億円を投資して、売買注文の処理速度を最大600倍まで高めました。

     <日本の将来のため>

      12年に日本郵政の経営を監視する、政府の郵政民営化委員会の委員長に就任しました。自民党への政権交代で、日本郵政の経営陣も交代することになり、翌年に社長を任されました。大変な仕事だと分かっていましたが、日本の将来のためと引き受けました。

      全国2万4000の郵便局ネットワークは重要ですが、郵便や銀行、保険の各事業で異なる基幹システムを使うなど、遅れています。東証での経験を生かし、大規模なシステム改修を決断しました。

      日本郵政は15年春以降の株式上場を予定しています。年も年ですが、基盤ができるまでは社長を続けます。(聞き手 沢田享平)

      ※CIO=Chief Information Officer

     

      《メモ》 1961年慶大経卒、東京芝浦電気(現東芝)入社。96年に社長に就任し、会長、相談役を歴任。2005年に東京証券取引所の会長に就任し、同年12月に社長兼務。郵政民営化委員会委員長を経て、13年6月より日本郵政社長。14年3月末の日本郵政グループの総資産は292兆2464億円、非正規を含む社員数は41万8433人。