兄が溜め込んでいた怒りをぶちまけるだけぶ
ちまけてしまうと、暫く母のすすり泣きが続い
ていましたが、それも途絶えると、今度は中か
ら物音ひとつ聞こえてこなくなりました。
私がそっと家の中に入って行くと、いつか見
た兄の姿がそこにありました。食卓の上にあっ
たものを払い除け、何も聞きたくないと言わん
ばかりに両手で耳を塞ぎ、何も見たくないと言
わんばかりに食卓に顔を押し当てた兄の姿が。
しかし、その姿勢のまま、呼吸だけは静かに、
ゆったりとした律動を繰り返しています。
兄はフランチェスカの変わり果てた姿を見て
以来、殆ど寝ていなかったのでしょう。そして、
溜め込んでいた怒りをぶちまけてしまうと、も
う疲れに勝てなかったのかもしれません。
寝ているの? 私は兄を起こさないように、
口の動きで母に尋ねました。
母は涙を拭いながら頷き、そっと席を立つと、
毛布をとってマルチェロの肩に掛けました。
「どうするの? マルチェロのこと」
私と母は兄から少し離れて小声で話しました。
「このまま静かに寝させておくわ。暫く寝れば
落ち着くでしょう」
そんなはずはない。私は直感的にそう感じま
した。マルチェロの性格を考えれば、これで終
わるはずはない。しかし、私は自分の直感を無
視して、母に言いました。
「じゃあ、俺は今日、おばあちゃんの所に泊め
てもらうよ」
「ええ、そうね」
母は私の言葉に反対はしませんでしたが、私
を見た一瞥に助けを求めるような、気持の揺ら
めきを見た気がしました。しかし、私はそれに
気が付かない振りをしました。もう、うんざり
だ、こんなこと。心のどこかでそんな声がしま
した。この時、兄と母を二人だけにせず、家族
として寄り添っていたら、あんな事は起こらな
かったはず、そう思います。兄が卑怯だと言う
なら、私も同じです。私も逃げたのですから。
「蝋燭は消しておいた方がいい?」
「いいえ、そのままにしておいていいわ。マル
チェロが暗闇の中で目を覚ましたら、きっと不
安に思うだろうから」
「じゃあ、このままにしておくよ」
私は静かに扉を開けて、そのまま外に出て歩
き始めました。
もう何も考えたくない、そう思いながら。
その夜、母は眠ることができず、寝台で毛布
にくるまったまま、じっとしていました。する
と音も無く部屋の扉が開きました。そこに兄が
立っているのが分かりました。蝋燭の炎が背後
に揺らめき、その表情を窺い知ることはできま
せん。が、その微かな光は兄が手にもってるも
のをはっきりと照らし出しました。その手には、
祖母のピストルが握られていたのです。
母が深い眠りについていると思っていた兄は、
そのまま音も無く部屋に入ってくると、母の寝
ている寝台の傍に立ち、母をじっと見下ろしま
した。
殺される。
母はそう思いましたが、そのままじっと動き
ませんでした。
自分は死んでもいい、それでマルチェロの気
が済むのなら。息子をこんな所まで追い込んで
しまったのは、確かに自分にも責任があるのだ
から。諦めにも似た気持ちが母の中に広がって
いきました。自分の何がそんなにいけなかった
のか、どこで道を間違えたのか、母は残された
僅かな時間で必死に考えましたが、どこにも答
えは見つかりませんでした。
一体、どれほどの時間、そうしていたのかも
分かりません。それは一瞬のようにも、永遠の
ようにも思えました。
それでも終わりの時はやってきました。
やがて兄はゆっくりとピストルを持ち上げ、
引き金に指を掛けました。
そして、引き金を引いたのです。
銃身を自分の口にくわえて。