第3部 パリ、毒薬 / 第13節 魔女と魔術士 | アルプスの谷 1641

アルプスの谷 1641

1641年、マレドという街で何が起こり、その事件に関係した人々が、その後、どのような運命を辿ったのか。-その記録

 



  
  始めは軋みながら、ゆっくりと動き始めた火

刑裁判所の歯車は徐々に勢いをつけ、やがては

全力で回転を始めた。審問室はバスティーユ近く

のアルスナル宮に置かれ、壁や窓は全て黒い布

で覆われ、揺らめく炎だけが部屋を照らしてい

たことから、シャンブル・アルダント(灯明室)

と呼ばれるようになった。錬金術師たちが逮捕

されてから約一年後、司直の手は魔女と魔術士

の一団に伸びていった。

  話は一六七八年末に遡る。メートル・ペラン

という弁護士がマリー・ヴィグルーという女占

い師の主催する夕食会に招待された。婦人服の

仕立て屋である夫を持つヴィグルー夫人は、か

つて貴族たちから乳母として雇われていたが、

その職を辞して占い師として身を立てるように

なっていた。それ以来、類い希な才能を発揮、

パリで最も有名な女占い師のひとりとして、パ

リのあらゆる階級から顧客を集めていた。

  夕食会には、牛のような体躯をした四十絡み

の女、マリー・ボスもいた。馬の売買をしてい

た夫の死後、通貨偽造で逮捕された前歴があっ

たが、釈放後はヴィグルー夫人と同様、女占い

師として成功し、裕福な生活をしていた。

「あたしなら、あと三人ぐらい毒殺したら、そ

の遺産で引退してのんびり暮らすね」

  夕食会で飲み過ぎていたマリー・ボスは豪快

な放言で席を湧かせたが、弁護士のペランはそ

の言葉を聞いた時のヴィグルー夫人の顔に浮か

んだ険しい表情を見逃さなかった。これはただ

の冗談ではない、そう直感したペランは警察に

通報した。

  警邏隊中隊長デグレは直ちに内偵に入り、部

下の妻を客としてマリー・ボスの所に送り込ん

だ。彼女は夫に対する不平不満をマリー・ボス

に打ち明けた所、女があっさり毒薬を出してき

たので吃驚仰天。すぐに報告が上げられた。

  一六七九年一月、ヴィグルー夫人とマリー・

ボスが逮捕された。

  マリー・ボスの供述には、私の知っている人

物の名前が頻繁に現われた。カトリーヌ・デシ

ェ・モンヴォワザン、そう、あのラ・ヴォワザ

ンだ。

  マリー・ボスと毒殺魔マグドレーヌ・ド・ラ

・グランジェに引き合わせていたのも、錬金術

師のヴァナンと通じていたのも、このラ・ヴォ

ワザンだということが分かった。

  ヴィグルー夫人は同年五月に拷問により死亡、

マリー・ボスは同じ月に火刑にされた。マグド

レーヌはこれより前、二月に絞首刑となってい

る。しかし、この三人が処刑されたからといっ

て、毒殺事件は何の解決にもならないように思

われた。ヴィグルー夫人は、パリには他にも四

百人以上の同業者がいると供述している。これ

らの処刑は、この後に続いて起こることの不吉

な予告でしかなかった。

  
  そして遂にその日が来た。

  ラ・ヴォワザンが一六七九年三月十二日に逮

捕されたのだ。

  あの日、ラ・ヴォワザンのサロンに呼ばれた

時から、いつかこの日がやってくると薄々は感

じていたので、特段の驚きは無かった。それで

も、自分がいかに際どい所にいるのかを改めて

思い知らされた。

「あんたはもう事件の部外者なんかじゃない。

事の成り行き次第ではいつ誰に殺されても不思

議じゃないんだよ」

  私の前任者を名乗る男の言葉が耳に甦る度に、

氷のような戦慄が走った。

  
  ラ・ヴォワザンは、占い、錬金術、毒薬を生

業とする犯罪者集団の交錯点であり、自らもま

たあらゆる犯罪に手を染めていた。惚れ薬を調

合し、毒殺を請け負い、望まれない子供の堕胎

を行った。私がラ・ヴォワザン邸の庭で見た竈

(かまど) は、生まれることの叶わなかった子供

を焼くためのものだったのだ。あの荒涼とした

庭のどこかには、実に二千に及ぶ子供たちの骨

が埋められているという。また依頼の内容によ

っては黒魔術をも行う魔女であった。オカルト

に関しては造詣が深く、パリ大学の教授たちと

討論するほどだったそうだ。ラ・ヴォワザンの

元にはパリ中から依頼者が集まり、毎日、朝早

くから館の前に列を作っていた。そこから吸い

上げられる莫大な利益で、女は複数の愛人を囲

い、王侯貴族のような暮らしをしていたのだ。

  ラ・ヴォワザンの供述から、愛人関係にあっ

た男が逮捕された。

  男の名はアダム・デュ・クルエ、自らをルサ

ージュ(賢者)と名乗っていた。

  男は悪霊との交信を専門とする魔術士だった。

ルサージュはフランソワ・マリエットという聖

職者と結託し、皮を剥いだ蛙に祈りを捧げたり、

福音書を逆から読むなどの背教行為を行ってい

た。ルサージュとマリエットは一六六八年に冒

涜の罪で有罪判決を受け、ガレー船送りとなっ

ている。普通ならガレー船送りとなったものが

生きて帰ってくることなど、まず考えられない。

しかし、ルサージュは地中海で数年間のガレー

船暮らしを送った後、再びパリに舞い戻った。

このことは後の事件の推移に繋がる重大な疑惑

を呼び起こした。社会的な影響力のある何者か

が、ルサージュの魔術を利用するために解放し

たのではないかと疑われたからだ。

  驚くべきことに、ルサージュは前の失敗に全

く懲りないどころか、自らを「偉大なる魔術士」

と銘打って、ラ・ヴォワザンたちと共謀して再

び大々的に違法稼業を始めた。

  ルサージュがしばしば使った魔術は次のよう

なものだった。

  まず依頼者の悩みや願い事を紙に書かせ、ル

サージュにそれを見せないようにして小さく折

り畳ませた。その畳まれた紙を丸く固めたワッ

クスに仕込み、炎に投じる。するとワックス玉

は派手に爆発し、後には何も残らない。まるで、

地獄の底から悪霊が現れ、紙片の入った玉を燃

える手でつかみ取ったかのように。

  その後、数日して、願いは聞き届けられたと

して、ルサージュは悪霊のからの指示を依頼者

に伝えた。時には依頼者が書いた紙片を返すこ

ともあった。依頼者は一瞬にして燃え尽きたは

ずの紙片が、再び目の前に現れたことに驚き、

ルサージュの降霊術に深く感銘したという。し

かし、紙に書かれた邪悪な欲望や他人に言えな

い秘密を握ったルサージュは、しばしば顧客を

脅迫し、金を巻き上げていた。

  ラ・ヴォワザンやルサージュを中心とした魔

女と魔術士の群れは当局によって捕縛された。

彼らの行く手に待っているものは燃えさかる火

刑台だった。

  
  死を前に、僅かな生存の可能性を賭けて誹謗

中傷合戦が始まった。

  かつての愛人同士、仲間同士が、口汚く罵り

合い、お互いに罪をなすりつけ合い、時には口

裏を合わせて陰惨な出来事をでっちあげた。

  ルサージュが本物の魔術士であったかどうか

はともかく、奴が天才的な詐欺師であり、稀代

のペテン師であったことだけは間違いない。男

は生き残るために、考え得るあらゆる奸計を巡

らせた。

  ルサージュたちの供述は宮廷をも巻き込み、

パリ、ヴェルサイユ、そして全フランスを大混

乱に導いていったのだ。