黒豹リキシャワラを専属ドライバーに、一日も無事終わり、ホテルに帰っ
てきた二人。
チップを付けてお金を払い、別れを告げようとすると、
「明日はどこにいく?」 とリキシャワラ。
「どこにも行かないよ」
「本当か?」
「本当だよ」
「絶対か?」
「絶対だよ。明日は、もう街を出るからね」
ふうん、と納得がいかない様子ながら、ここは諦めた様子。
翌日、街を出るというのは本当ですが、それは夜の話。どこへも行かない
なんて、そんなわけありません。郊外にある世界遺産、ファテープル・スィ
ークリーに行く予定になっていました。そうするには、ちょっと遠い所にあ
るバス・スタンドまで行かなければなりません。とは言うものの、この黒豹
のおっさんに頼むのも癪なので、歩いてでも、自分で行くつもりでいました。
次の日の早朝、私は眠い目をこすりつつ、ホテルを出ました。昨日同様、
夜も未だ明けきらない時間です。
この時間なら、あの業突張りなリキシャワラと出会う心配もありません。
まったく、もう──、私はぶつぶつ呟きながら、歩き出しました。大体、何
で俺がこそこそしなきゃならないのかなぁ、あのおっさんのせいで。そもそ
も顔が怖いんだよ。すぐ怒るしさあ──
「待てい」
だあああ、見つかったぁ!
「どこに行く」
「いや、ちょっとバス停まで」
「俺のリキシャに乗れ、連れてってやる」
「いや、しかし──」
「ごちゃごちゃ言わんと乗れ」
こうして私は再び黒豹リキシャに拉致されたのでした。
事ここに至って、私は漸く状況を理解しました。
ホテルの前は、黒豹の縄張り──というか、彼の家みたいなものなのだと
いうことを。ホテルから出ることは、イコールおっさんの家に入るのと同じ
こと。そりゃ、朝早ければ早いほど、おっさんと出会う確率は高まるはずで
す。おっさんにしてみれば出勤前に家で一服の時間なわけですから。
午後、ファテープル・スィークリーから帰ってきた時には、黒豹の姿は見
えませんでした。なるほど、この時間は働きに出ているようです。
夜になって、私は荷物をまとめて、ホテルを出ました。
と、そこには黒豹リキシャワラが──、
おや、帰ってたのね。もうお仕事終わったの?
私は敗北の苦い味を噛み締めながら駅まで運ばれていきました。リキシャ
ワラとの足掛け三日に及ぶ闘いは、私の完敗でした。
駅でリキシャから降りれば、今度こそ黒豹のおっさんの顔を見るのも最後
です。
別れ際、黒豹は私に言いました。
「なあ、もっと金くれよ」
「そんな欲張るなよ、約束したはずだろ」
私は力無く答えて、約束した額より幾らか上乗せした金を渡し、別れを告
げて歩き出しました。
何らかの理由で故郷を捨てて都会に出てくる男たちが、最初にする仕事は、
こうしたサイクル・リキシャの仕事だといいます。リヤカーをくっつけた程
度の古自転車を頼りに、彼らはその日その日を生きています。この男の場合
のように、寝る場所も恐らくは客を乗せる座席で、という生活も珍しくない
のかもしれません。自分には想像もつかないような過酷な現実を垣間見て、
負けるにしても、もっときれいに負ければ良かったのかなと、最後は少し複
雑な気分で、アーグラーを後にしました。
ファテープル・スィークリー