第2部 「異端の谷」、第2章「ヨーロッパ1655」、第5節 (2) | アルプスの谷 1641

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1641年、マレドという街で何が起こり、その事件に関係した人々が、その後、どのような運命を辿ったのか。-その記録

「報復に次ぐ報復、憎しみに次ぐ憎しみ、どこまで行っても果てることはあり
ません。 教えてください。 我々は三十年続いた先の大戦争を再び繰り返すほ
どに愚かなのでしょうか」 (前節より)
 
 
本ブログをご訪問いただき、ありがとうございます。
 
 
第2章、第6節 (第2章最終節) は、5月4日に投稿します。
 
 
( 全体の目次はこちら(本サイト)からご覧いただけます )
(第一章の最初から読む )
 
 

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第2章 「ヨーロッパ1655 」
 
 
5.   ドミニコ会修道士フェルナンド (2)
 
 
 
 私たちは言葉も無く、林の中を辿る小道を歩いていきました。 葉が芽吹く
 
前の梢は早春の陽の光を遮ることもなく、残雪に幾何学模様の影を投げ掛け
 
ておりました。
 
「ところで、以前、マレドを追放同然に追われた聴聞僧のことですが……」
 
重苦しい沈黙に耐えかねたように、ダミアーノ士が話を変えました。 「名前
 
を何と言いましたか――」
 
「ああ、エミリオのことですか、それに修道士見習のシルヴィオですね」
 
「そう、その二人のことです。 マレドを出立して後、二人共、行方が分から
 
なくなったと聞いていますが……」
 
「残念ながら、その通り、シルヴィオについては分かっていません。 どこか
 
異国の、宣教師の墓場と呼ばれるような所に自ら志願して行ったと言われて
 
います。 まことに残念なことです。 未来ある若者が、そのような所で自分
 
の魂や肉体を朽ち果てるがままにしたとしたならば。 しかし、最近のカト
 
リック教会では、そんな話も珍しくはありません。
 
 しかし、エミリオについては、マレドからそれほど遠くない場所で、人の
 
施しを受けながら彷徨っている姿を見た者がありました。 私は噂を確かめる
 
と、自分で彼を引き取りに向かいました。 ――私は、彼がこうなることを望
 
んでいたわけではありません。 私はただ――」
 
「分かっています、フェルナンド士。 あなたは彼を助けたかったのですね。
 
彼の独断で推し進められた異端審問によって、エミリオ自身がカトリック教
 
会から処罰される恐れがあったのを救いたかった、そうですね?」
 
 私は友人の暖かい言葉に感謝を感じながら、頷きました。
 
「エミリオは変わり果てた姿ではありましたが、表情は穏やかで澄んだ目を
 
しておりました。 私は彼を自分の修道院に連れて帰りました」
 
「彼は事件のことを何か語りましたか」
 
「いや、そのことについては何も語ろうとはしません。 少なくとも自分が間
 
違ったことをしたとは考えていないようです。 しかし、裁判で自分が有罪と
 
した被告の家族たちについては、気に掛かるものがあるようです」
 
「家族をも処刑すべきであったと彼は考えていたということでしょうか」
 
「不思議なことを言うようですが、全くその逆です。 彼は被告の家族――特
 
にコルラードの家族が無事であるかどうかを気に掛けておりました。 コルラ
 
ードが異端審問で有罪となり処刑された以上、このカトリック世界では、家
 
族にもどのような禍が及ぶとも分かりません。
 
 私はエミリオと何度も話し合いました。 彼は自分の本心を簡単に打ち明け
 
るような人間ではありませんから、大抵の場合は、自分が一方的に喋ってい
 
るような場面が多かったのですが、それでもいつしか、彼と話をすることが
 
自分の喜びになっていたことも白状しなければなりません。
 
 私はこれまで、自分が大変な間違いを犯してきたものと思っていました。
 
狂信者を異端審問所に送り込んでしまったと思っていたのです。 しかし、彼
 
と接している内に、そのような考えも消え去りました。 裏にどのような事情
 
があるにせよ、彼は自分の信念に従って行動したまでのことなのだと、今は
 
信じています。
 
 彼は狂信者などではありません。 そのことは、コルラードの娘、アンナに
 
ついて見せた気遣いからも分かります」
 
「その娘は無事なのですか?」
 
「そのことですが……、その娘はアーゾラというヴァルドの村にいるらしい
 
のです」
 
「しかし、それでは――」
 
「そうです。 今となっては、大変、危険です。 私はそのことをエミリオに話
 
しました。 その娘がどこにいるのか、そして、このピエモンテで何が起ころ
 
うとしているのか――」
 
「そして、エミリオは?」
 
「彼は再び姿を消しました。 突然、何も言わずに。
 
 しかし、私は驚きませんでした。 心のどこかでこうなることを予期してい
 
たのかもしれません。 私はもう一度、あの男を信じたかったのです。 自分は
 
間違っていないと、私の魂がそう訴えています。 私のような意気地のない老
 
人にはできないことが、彼のような人間にはできるのかもしれない、そう思う
 
からです」
 
「神がその男を見守りくださいますよう」
 
 ダミアーノ士は立ち止まり、深く頭を垂れ、手を合わせました。 私もまた
 
それに倣いました。
 
 風に揺れる梢の影が私たちの上に遊ぶ以外、世界はまるで死んだように静
 
まり返っています。 ダミアーノ士とこの道を歩きながら、大笑いした日のこ
 
とがふと記憶に甦りました。 それはいつのことだったのか、何がそんなに可
 
笑しかったのか、まるで遠い昔の出来事のようで、いくら考えても思い出す
 
ことができませんでした。