新生きる極寒シベリアで生き抜いた男 定期便 -2ページ目

新生きる極寒シベリアで生き抜いた男 定期便

老人より戦後ソ連の捕虜となりシベリアへ抑留された話を聞き、自らソ連の盾となり命を救ってくれた小隊長の行方を奇跡的に捜しあてる。半世紀以上の奇跡の再会のレポートを記してゆきます。

3年ぶりにあった小隊長は以前と比べ

弱々しくなっていました。簡単なあいさつをすませ、

事前にプロデューサのほうから、60年前のあの事件の

真相について聞くように言われておりました。

ただ、わたしにとって小隊長は、本当に尊敬する方

でしたので、大変緊張し、うまく言葉が伝わらなかった

ところがあったかと思います。そして、私が玄関に入った

ときからカメラが回り、奇妙な静寂が漂っていました。


そして小隊長は、あらかじめ用意してあった紙をとりだし、

私に呼んでいいかと言われました。

そして一気に読まれました。

 収容所で一人孤独と闘っていたこと。

 部下を無事日本へかえす責任とソ連からの過酷なノルマに

 苦しんでいたが、弱音をはくわけにはいかないこと。

 そして思いあまり、一人、丘に登り飛んでいる雁にむかい

 叫んだのでした。


   雁よ雁よ・・・。

   もし、おまえが日本へ飛んでいくのだったら伝えておくれ・・。

   俺は、こうやって生きてるんだと・・・・。


 静寂広がる部屋に小隊長の心からの声が鳴り響きました。


 ずっと60年も小隊長は、この言葉を温めていたのでしょう。

 ご家族にも話せず、話せる相手を捜されていたのでしょう。

 この紙を読み終えるや、またもう一枚紙をだされたのでした・・・。


$新生きる極寒シベリアで生き抜いた男 定期便-イリティッシュ河・上流ダム


上の画像は、現在のイリティッシュ河・上流ダムの様子。このダムは、もともとはソ連が満州・豊満ダム(当時東洋一の規模)の機材をまるごと盗んできて日本人、ドイツ人の手によってつくられました。小保さん・吉山小隊長が採石した岩は、このダムの基礎と手前の工場の基礎として
使われました。(ちょっと見えると思います。これを見たとき嬉しかったです。)
今現在、このダムは幾度の改修を経て立派に稼働しております。私たち日本人は、多くの先祖が
立派に他国の社会資本の構築を行い、大いに貢献されていたことを誇りに思い、生きてゆかねば
ならないと思います。





$新生きる極寒シベリアで生き抜いた男 定期便-イリティッシュ河・上流ダム
アンビリーバボーの放映が決まり、小保さん、私のインタビューは7月中に佐渡で終えていました。

プロデューサーからの連絡があり、小隊長とお話をしてほしいとの依頼があり、8月の中旬に九州へ

向かいました。

$新生きる極寒シベリアで生き抜いた男 定期便-小隊長

奇跡の再会から3年あまりたっていました。私の小隊長の印象は、あの若々しいオールバックの小隊

長でした・・・。


いざ、小隊長宅へお邪魔したときはびっくりしました。私が家にはいったときは、もうカメラは回っ

ていましたので、髪の毛は短くなり、下を向いた弱々しい小隊長の姿にはびっくりしました。


聞くところ、数年前に転倒し、足を怪我をされたそう。施設に入っているとのことでした。

(人間、足の衰えや怪我があると一気に老けるものだなと思いました。)


プロデューサーから小隊長をさがすまでの苦労を話しし、小隊長と会話をし、小保さんのことや

あの、20名の日本人を救うためにソ連兵に立ち向かったことのことを会話してほしいとの依頼

でした。


しかし、すっかり変わられた小隊長の姿と緊張と撮影からくる静けさから異様な雰囲気でした。


そして、私の語りかけのあとに、小隊長は懐から紙をだして読み上げたのでした・・・。




小隊長は何故生きて日本に帰られたのか?

私と小保さんにとっては謎でした。7月1日に奇跡が起き、すぐに7月15日に

九州へ向かうことに決めました。


 しかし、当日は、再会の喜びや昔話に花が咲き、このような素晴らしい雰囲気の中で

「なぜ、生きて帰られたのか?」と問うことは難しい空気でした。


 実は、この謎が解けたのは、3年後に放映される「アンビリーバボー」の取材の中で

明らかになるのでした。

 担当ディレクターのTさんと番組制作をすすめておりました。私と小保さんの取材が終り、

いよいよ九州へ飛んで小隊長との取材に行かれるときでした。

 小隊長の取材のときに、どうして日本に帰れたのかを聞いてきてほしい・・・。

やはり、小保さんや私ではこのことは聞ける立場にありません。Tさんにお願いすることに

しました。




 そして数日後、Tさんから電話があり事実が明らかになりのでした・・・・。





 やはり小隊長は、小保さんはじめ20名の部下を救うためにご自身の命を投げ出す

 覚悟でいました。


 脱走したことで2名が銃殺刑にされたことも小隊長はご存知でした。


 何故、これ以上の罪は科されずに生きて帰れたのか?




 それは、 この「収容所ぐるみの食料の横流し」にありました。




 収容中、本来、小保さんはじめ捕虜にいくべき食料がすべて収容所上層部のふところ

 に入り、このせいで、日本人の犠牲者が多数でていました。

 小隊長は、本来は銃殺刑または重罪に処せられる運命だったのですが、この横領が

 ばれると収容所の上層部の処遇に影響がでると思ったのでしょう。

 収容所の上層部は数日の独房にいれることで罪を軽くした。ということでした。



 この事実はわかるや、すぐに小保さんに電話しました。

 伝え終わると、しばしの沈黙がありました・・・・。


 やはり小隊長は俺たちのために命を投げ出してくれたんだ・・・。


 この沈黙が小保さんの感謝の気持ちと小隊長に向けての涙だと思っていました・・・。