あの夏の交差点に 6
6
ジョンとビリヤード屋を出てコンビニのトイレに向かった。ヘアワックスをつけるためだ。僕はすこし気合を入れすぎて、ワックスをつけすぎてしまった。ジョンに聞いたが気にならないから大丈夫だといった。ジョンもつけすぎたかと聞いたが大丈夫だと伝えた。人は驚くほどに他人に無関心なのだ。それは冷たいという意味ではなく、当然のことだ。結局のところ、人は他人なんてどうでもいいし無関心なのだ。ただその無関心を「心配」と「笑顔」という嘘で包んで人々は関わっている。そうやって成り立っている、そういうものだ。
コンビニから出て待ち合わせ場所に向かった。
「どこで待ち合わせだい?」
「6時にハチ公さ」
「THE待ち合わせ場所だな」
6時を少し過ぎたころ女の子たちがやって来た。
「おっと言い忘れたけれど彼女いないふりで頼むよ」ジョンがささやいた。
「おまたせ。ジョン君」
ジョンが僕を大学の友達の大橋だと紹介した。すこし変わったやつだけどよろしくという余計な事を付け加えた。僕たちは居酒屋に向かった。
自己紹介が始まった。一人は由梨絵という背の高い女の子だ。綺麗な黒髪が印象的で都内の美術大学に通っているという。ぼくがこの子の歌をバンドで作るとしたら題名は「その髪で縛って殺して」だなと考え、一瞬にやっとした。おかげで笑顔が素敵ねと言ってもらえた。僕は大切なときに余計なことを考えてしまう。その代表がこの「歌の題名」だ。
「由梨絵ちゃんこそ」
もう一人は小柄の由希という子だ。髪は茶髪で化粧が濃かった。まあこんな印象から分かるように僕は圧倒的に由梨絵ちゃんを気に入った。
話も盛り上がり、この飲み会は久々に楽しいと思えるものであった。僕はトイレに立ち、手を洗っているとジョンがやって来た。
「君は相当由梨絵ちゃんが気に入ったみたいだな」
「気に入ったとかそういうのじゃなくて、まあ純粋に楽しいかな。でもなぁ」僕は鏡を見ながらつぶやいた。
「合コンしちゃってるなぁ、瞳を裏切ってる」
ジョンはやれやれといった表情で僕に反論した。
「まあそう難しく考えるな。これは合コンなんかじゃない。んん、そうだなぁ、」これといった案がなく一瞬沈黙が起こった。
「勉強会、これは勉強会だ」
本当にジョンは面白いやつだ。
ジョンとは女の子の趣味が合わない。だからこそ喧嘩にならないし、うまく付き合えていたのかもしれない。まぁ正直なところ、ジョンの女の子の趣味は少し変わっている。本当に失礼だと思うけど、そう感じることがしばしばある。ある日、学校の帰りにレンタルビデオ店に2人で入った。大半の男子がそうするように僕たちは18禁コーナーに向かった。同じ棚を見ていて、―それか―というものばかり手に取るのである。
そういうわけでこの合コン、いや、勉強会でも由梨絵ちゃんを独り占め出来た。
その後の事は覚えていない。
目が覚めて横を見ると裸の由梨絵ちゃんが寝ていた。どうやらここはホテルだ。彼女のふっくらとした乳房を見て僕はやってしまったと思った。嘘であってくれ、何もかも。それこそ、その髪で縛って殺してくれとさえ思った。ただそんなことを思っても何一つ変わらないことは分かっていた。彼女がゆっくりと目を覚ましこちらを見つめた。僕はなんて言ったらいいのか見当もつかなかった。沈黙が僕たちを支配した。それは5秒であったかもしれないし5分だったかもしれない。いずれにせよ時間を越えた深い、深い沈黙があった。
僕は恐怖をこらえ、彼女におはようといった。
「おはよう」彼女は下着を着け、ワンピースをさっと着て帰る私宅を済ませた。怒っているのか、まんざらでもないのか、彼女の表情からは読み取れなかった。彼女は、またねと言い残して部屋を出て行った。
いずれにせよ残ったのは「瞳を裏切った」という事実と由梨絵ちゃんの携帯の番号の書かれたメモ帳だ。番号の下にはこうも書いてあった。
「ほかの女の名前を言うのは最低、でもあなたといると楽しい」
悪くはない気分だった。
*
僕は由梨絵ちゃんが部屋を出た後、一人で必死に昨夜のことを思い出そうとした。そもそもここはどこなのだろう。テーブルに無造作に置いてあった安っぽいライターの住所を見つけた。
新宿区歌舞伎町~ ホテル しゃるる
コマ裏か。
場所が新宿だと分かっていささか安心した。どこかの田舎の山奥のホテルだったらどうしようと思っていたからだ。それほど記憶がないのだ。僕はひどくむなしくなって窓を開けた。昨夜を思い出す何かを探そうとした。朝の9時だというのに通りにはわけのありそうな人たちでごった返している。僕は一人のホスト(その髪は鶏のとさかを連想させた)をぼっと眺めていた。きれいなシンデレラのようなドレスを着たお客さんを相手に必死に話している。鶏が話すとシンデレラは必ずといっていいほど笑う。よほど鶏の話が面白いのか、シンデレラの笑いのツボが恐ろしく浅いのかは分からない。おそらくお客さんのアフターか何かだろう。
僕は理解できない。シンデレラはボトルに数万円という詐欺まがいのお金を払って鶏と話を楽しむ。鶏はその金を得るためにシンデレラを楽しませる。二人とも分かっているのだ。その会話には何の意味もないことを。からっぽの、まったく意味のない会話だということを。ただ残念なことにこの世のほとんどの会話がその部類に入ることも僕は分かっていた。新宿の朝は驚くほどにさわやかで朝日はいつもと変わらず僕を照らした。カラスが朝ごはんを探し回っている。高級料理店の前には収集される前の生ごみというご馳走が転がっている。カラスたちは大声を上げて仲間に知らせる。
「カーア、カーア(おい、飯があるぞ、高級料理だ)」
「カーアカーア、カーア(本当かい、こっちにもあるけれどネットが張ってあって取れないよ)」
「カーアカアカアカア(馬鹿だなぁ、そんなのちょっとどかせばすぐ取れるんだよ、そっちには何があるんだい?)」
「カーア、カアカアカーア(こっちは焼肉店だから生肉がたっぷりさ)」
「カーアカアカアカーアカア(よし、巣に持って帰ってパーティーだ、今日も生き延びれる)」
大声で話していた鶏とシンデレラがカラスに向かってうるさいと言う。あっち行けと。
どちらが本当に必要な会話なのだろう。それは間違いなくカラスの生きるための会話だ。ただ、カラスの会話だけだと灰色の世界になってしまうのかなとも感じた。
僕たちは無駄な会話に慣れすぎてしまったのかもしれない。
あの夏の交差点に 6
ジョンとビリヤード屋を出てコンビニのトイレに向かった。ヘアワックスをつけるためだ。僕はすこし気合を入れすぎて、ワックスをつけすぎてしまった。ジョンに聞いたが気にならないから大丈夫だといった。ジョンもつけすぎたかと聞いたが大丈夫だと伝えた。人は驚くほどに他人に無関心なのだ。それは冷たいという意味ではなく、当然のことだ。結局のところ、人は他人なんてどうでもいいし無関心なのだ。ただその無関心を「心配」と「笑顔」という嘘で包んで人々は関わっている。そうやって成り立っている、そういうものだ。
コンビニから出て待ち合わせ場所に向かった。
「どこで待ち合わせだい?」
「6時にハチ公さ」
「THE待ち合わせ場所だな」
6時を少し過ぎたころ女の子たちがやって来た。
「おっと言い忘れたけれど彼女いないふりで頼むよ」ジョンがささやいた。
「おまたせ。ジョン君」
ジョンが僕を大学の友達の大橋だと紹介した。すこし変わったやつだけどよろしくという余計な事を付け加えた。僕たちは居酒屋に向かった。
自己紹介が始まった。一人は由梨絵という背の高い女の子だ。綺麗な黒髪が印象的で都内の美術大学に通っているという。ぼくがこの子の歌をバンドで作るとしたら題名は「その髪で縛って殺して」だなと考え、一瞬にやっとした。おかげで笑顔が素敵ねと言ってもらえた。僕は大切なときに余計なことを考えてしまう。その代表がこの「歌の題名」だ。
「由梨絵ちゃんこそ」
もう一人は小柄の由希という子だ。髪は茶髪で化粧が濃かった。まあこんな印象から分かるように僕は圧倒的に由梨絵ちゃんを気に入った。
話も盛り上がり、この飲み会は久々に楽しいと思えるものであった。僕はトイレに立ち、手を洗っているとジョンがやって来た。
「君は相当由梨絵ちゃんが気に入ったみたいだな」
「気に入ったとかそういうのじゃなくて、まあ純粋に楽しいかな。でもなぁ」僕は鏡を見ながらつぶやいた。
「合コンしちゃってるなぁ、瞳を裏切ってる」
ジョンはやれやれといった表情で僕に反論した。
「まあそう難しく考えるな。これは合コンなんかじゃない。んん、そうだなぁ、」これといった案がなく一瞬沈黙が起こった。
「勉強会、これは勉強会だ」
本当にジョンは面白いやつだ。
ジョンとは女の子の趣味が合わない。だからこそ喧嘩にならないし、うまく付き合えていたのかもしれない。まぁ正直なところ、ジョンの女の子の趣味は少し変わっている。本当に失礼だと思うけど、そう感じることがしばしばある。ある日、学校の帰りにレンタルビデオ店に2人で入った。大半の男子がそうするように僕たちは18禁コーナーに向かった。同じ棚を見ていて、―それか―というものばかり手に取るのである。
そういうわけでこの合コン、いや、勉強会でも由梨絵ちゃんを独り占め出来た。
その後の事は覚えていない。
目が覚めて横を見ると裸の由梨絵ちゃんが寝ていた。どうやらここはホテルだ。彼女のふっくらとした乳房を見て僕はやってしまったと思った。嘘であってくれ、何もかも。それこそ、その髪で縛って殺してくれとさえ思った。ただそんなことを思っても何一つ変わらないことは分かっていた。彼女がゆっくりと目を覚ましこちらを見つめた。僕はなんて言ったらいいのか見当もつかなかった。沈黙が僕たちを支配した。それは5秒であったかもしれないし5分だったかもしれない。いずれにせよ時間を越えた深い、深い沈黙があった。
僕は恐怖をこらえ、彼女におはようといった。
「おはよう」彼女は下着を着け、ワンピースをさっと着て帰る私宅を済ませた。怒っているのか、まんざらでもないのか、彼女の表情からは読み取れなかった。彼女は、またねと言い残して部屋を出て行った。
いずれにせよ残ったのは「瞳を裏切った」という事実と由梨絵ちゃんの携帯の番号の書かれたメモ帳だ。番号の下にはこうも書いてあった。
「ほかの女の名前を言うのは最低、でもあなたといると楽しい」
悪くはない気分だった。
*
僕は由梨絵ちゃんが部屋を出た後、一人で必死に昨夜のことを思い出そうとした。そもそもここはどこなのだろう。テーブルに無造作に置いてあった安っぽいライターの住所を見つけた。
新宿区歌舞伎町~ ホテル しゃるる
コマ裏か。
場所が新宿だと分かっていささか安心した。どこかの田舎の山奥のホテルだったらどうしようと思っていたからだ。それほど記憶がないのだ。僕はひどくむなしくなって窓を開けた。昨夜を思い出す何かを探そうとした。朝の9時だというのに通りにはわけのありそうな人たちでごった返している。僕は一人のホスト(その髪は鶏のとさかを連想させた)をぼっと眺めていた。きれいなシンデレラのようなドレスを着たお客さんを相手に必死に話している。鶏が話すとシンデレラは必ずといっていいほど笑う。よほど鶏の話が面白いのか、シンデレラの笑いのツボが恐ろしく浅いのかは分からない。おそらくお客さんのアフターか何かだろう。
僕は理解できない。シンデレラはボトルに数万円という詐欺まがいのお金を払って鶏と話を楽しむ。鶏はその金を得るためにシンデレラを楽しませる。二人とも分かっているのだ。その会話には何の意味もないことを。からっぽの、まったく意味のない会話だということを。ただ残念なことにこの世のほとんどの会話がその部類に入ることも僕は分かっていた。新宿の朝は驚くほどにさわやかで朝日はいつもと変わらず僕を照らした。カラスが朝ごはんを探し回っている。高級料理店の前には収集される前の生ごみというご馳走が転がっている。カラスたちは大声を上げて仲間に知らせる。
「カーア、カーア(おい、飯があるぞ、高級料理だ)」
「カーアカーア、カーア(本当かい、こっちにもあるけれどネットが張ってあって取れないよ)」
「カーアカアカアカア(馬鹿だなぁ、そんなのちょっとどかせばすぐ取れるんだよ、そっちには何があるんだい?)」
「カーア、カアカアカーア(こっちは焼肉店だから生肉がたっぷりさ)」
「カーアカアカアカーアカア(よし、巣に持って帰ってパーティーだ、今日も生き延びれる)」
大声で話していた鶏とシンデレラがカラスに向かってうるさいと言う。あっち行けと。
どちらが本当に必要な会話なのだろう。それは間違いなくカラスの生きるための会話だ。ただ、カラスの会話だけだと灰色の世界になってしまうのかなとも感じた。
僕たちは無駄な会話に慣れすぎてしまったのかもしれない。
あの夏の交差点に 6
あの夏の交差点に 5
5
僕のことを少し述べる。僕は首都圏の大学の経済学部に推薦で入った。良くも悪くもない学校だ。なぜその学校かと聞かれたら大半の生徒が答えるであろう「なんとなく」だ。なぜ経済学部かと聞かれたら、大半の生徒が答えるであろう「なんとなく」だ。
僕はこの大学で決めていたことがある。
*1番にならない*
反対ならともかく、満開の桜の中を新しいスーツとおろしたての靴をはいて、今にも始まろうとしているキャンパスライフを目前にしての目標としてはありえない。しかし僕はこの「ありえない」目標を胸に秘めていた。
大学の導入ゼミのクラスにジョンというカナダ人と日本人のハーフがいた。30人弱のクラスで僕たちは席が隣になりいつの間にか仲良くなった。このゼミは大学生活とはどうあるべきか、レポートの書き方、図書館の使い方などを教わったのだが授業の大半は教授のアメリカで「競馬で見る、ミクロ経済学」という論文を発表し絶賛を受けた自慢話だった。ジョンに最初に話しかけられた言葉は
「この授業意味あるの?」だった気がする。
「ないね」
ジョンは身長が185センチあり金髪をなびかせている。その金色は5、6百円で買える染髪剤ではとても出すことのできないつやがある。おまけに水泳をしていたから体つきはミケランジェロのダヴィデ像を思わせた。
ジョンはルックスと違い英語が全く話せなかった。僕の方が話せたし、事実英語の点数も僕の方が良かった。
「なぜ英語を勉強しないんだい」
ジョンはこの言葉をひどく嫌った。
「完璧になるにはあまりにも多くの時間がかかるからさ、分かる?」
分かる?と言うのがジョンの口癖だった。それは不思議な事
に、僕には全く不愉快な気分にさせなかった。むしろ心地良く
感じた。逆に彼の言葉の最後にそれがないと違和感を感じるくらいだ。
「分からない」
「君は母国語をネイティブにすらすらと、当たり前に話せない恐怖を知らないからさ」
なるほど、ジョンの言っている事は分からなくもなかった。 僕は日本人のルックスでありながら日本語が話せない。しかし周りの人は次から次へと私にペラペラと話しかける。僕は「こんにちは」がやっと聞きとれるけるくらいだ。その人々はさんざん僕に話しかけた後、ため息をつき残念な顔をして僕から去っていく。これは恐怖以外の何者でもない。
「分かった気がするよ」
「良かった、恐怖だろ?」
●現在●
二人でよく渋谷に行った。何をしに行ったのかは覚えていない。ただ、10回遊ぶうちの8回は渋谷だったと思う。特別気に入った店があるわけでもないし、家が近いわけでもない。おまけに僕たちは人ごみをひどく嫌った。
ただ、渋谷は何かを感じさせてくれた気がする。夢、挑戦、希望。何かでかいことをしてやろうという気持ちにさせてくれたのかもしれない。
●大学1年●
2006年、大学1年の夏休みに僕はスクランブル交差点のスターバックスでジョンを待っていた。真夏でひどく暑い日だったし、この日も大した用事は無かった。せいぜい輸入CD屋でウィーザーやスティーブ・ヴァイといった訳の分からぬ組み合わせのCDを探したり、視聴したり、そんな程度だ。僕はバンド活動をしていたしあらゆるジャンルの音楽をPioneerのアンプで聞いた。
Pioneerのアンプ…
たくさんのアンプを試したが結局これに戻ってしまう。定価でも数万程度のプリメインアンプである。いいものはいいのだ。または「慣れ」かもしれない。ここから学んだ事は「慣れる」ようになればそれは自分にとって「良い」ものだということである。マンネリした彼女にも同じことが言える。
僕はアイスコーヒーを注文して砂糖を断り、ぼんやり外を眺めていた。ガラスだらけの渋谷はもはや自然と呼ばれる物は何一つ無かったし太陽光ですらあらゆる物に反射して僕の目を睨み続けた。信号が赤に変わるとどこからともなく人がやってくる。十秒で信号前の広場はごったがえす。信号が青になると全員が歩き出す。何をそんなに急いでいるのか僕には理解できなかった。それは水洗トイレのタンクのように繰り返す。溜まっては放出、その繰り返しだ。
しばらくすると申し訳なさそうにジョンが来た。
「井の頭線が遅延してさ、すまない」
僕はかまわないと言って、コーヒーを飲み干した。
「さてどこ行く?あ、遅れた代わりに今日の夜女の子を紹介するよ」
僕たちは鼻で笑い合い店を出た。
外に出た瞬間、店のクーラーを恨みたくなるような温度差で一瞬めまいがした。僕はそのときになってコーヒーにミルクを入れ忘れたことに気づいた。
僕とジョンは店を出るといつものように輸入CD屋に向かった。ジョンは世間一般がそうであるようにJポップやパンクを好んだ。それよりもジョンは僕の変わった音楽性に興味があるようだった。
「いつも思ってたんだけど」ジョンはジェフバックリーのレコードをつまみ上げながら言った。
「きみはなぜ詩の入っていない曲なんて聴くの?」
「インストゥルメンタルのこと?」
「そう、ジョーサトリアーニとかスティーブヴァイとか。いつからだい?」
考えてみれば高校生のころから僕の音楽性は少し変わっていた。もちろんおかしいという意味ではなくて普通の高校生が聴く音楽とは少し違っているという意味だ。僕だってできる事なら最新のJポップや格好いい洋楽なんかを歌いたかったのだが、興味が持てなかった。興味の無い歌を無理やり覚えて歌うことはストレス以外の何者でもなかった。おかげで一回カラオケに誘われた女の子からは二度と呼ばれることは無かった。
「昔からだよ、どうしても他に興味が持てないんだ。」僕とジョンはレコードを1枚ずつレジに持っていった。
「それなら無理することないね、興味ないものには手をつけない、それでいい。ただね、もったいない気もする」
僕たちはCD屋を出た。この日クーラーを恨んだのは2回目だった。そして早くも次の行き先に困った。
僕はさっきのジョンの言葉を思い出した。
「あ、そういえばさっき言ってた女の子って」
「ああ、今夜を楽しみにしてて。昨日の夜誘ったんだ。友達さ」ジョンの笑顔が不気味だった。
結局夜まで時間稼ぎをするためにビリヤード屋に入った。ビリヤードというのは本当に暇つぶしに適している。1時間なんてあっという間だ。なぜだかは分からないけれど僕たちはナインボールしかしなかった。
「きみはまだ彼女と付き合っているの?瞳ちゃんて言ったっけ」
「ああ、ジョンは続いてるかい?」
「まあね。これは瞳ちゃんにばれない様にね」
ジョンは自分の彼女のことをあまり話したがらなかった。写真すら見たことがない。詳しく聞こうとしてもいつも上手く話を変えられてしまう。ジョンの話を変える能力は全国でもトップクラスだろう。それほど彼女のことを話したがらないのだから可愛いすぎて誰にも見せたくないのか、その逆か。僕は後者のほうだと思うのだが真相は分からない。
「言えるわけが無いよ、でもお酒を飲むだけだろう?」僕はわざとらしく疑いながらたずねた。
「もちろんだよ」相変わらずにやにや笑っている。
瞳のことは好きだ。彼女はすべてが美しくて、何に対しても芯があるし僕のことをきっと誰よりも理解してくれている。しかし急な飲み会にひょこひょこやってくるような女の子にも少なからず興味があった。
「楽しむけど瞳を裏切るようなことは出来ない、わかるだろう?」
「本当に君はまじめだ」ジョンはやれやれといった感じで玉を突いた。9番の玉が1番ポケットに吸い込まれた。ジョンはいつも以上に調子がいいように見えたが僕はそんなジョンに5戦3勝と勝ち越した。僕は玉を突きながら、実は夜の飲み会がとてつもなく楽しみであった。そんな心を映したスコアだったのかもしれない。ビリヤードはモチベーションが大きく関係することをその時学んだ。
あの夏の交差点に 5
僕のことを少し述べる。僕は首都圏の大学の経済学部に推薦で入った。良くも悪くもない学校だ。なぜその学校かと聞かれたら大半の生徒が答えるであろう「なんとなく」だ。なぜ経済学部かと聞かれたら、大半の生徒が答えるであろう「なんとなく」だ。
僕はこの大学で決めていたことがある。
*1番にならない*
反対ならともかく、満開の桜の中を新しいスーツとおろしたての靴をはいて、今にも始まろうとしているキャンパスライフを目前にしての目標としてはありえない。しかし僕はこの「ありえない」目標を胸に秘めていた。
大学の導入ゼミのクラスにジョンというカナダ人と日本人のハーフがいた。30人弱のクラスで僕たちは席が隣になりいつの間にか仲良くなった。このゼミは大学生活とはどうあるべきか、レポートの書き方、図書館の使い方などを教わったのだが授業の大半は教授のアメリカで「競馬で見る、ミクロ経済学」という論文を発表し絶賛を受けた自慢話だった。ジョンに最初に話しかけられた言葉は
「この授業意味あるの?」だった気がする。
「ないね」
ジョンは身長が185センチあり金髪をなびかせている。その金色は5、6百円で買える染髪剤ではとても出すことのできないつやがある。おまけに水泳をしていたから体つきはミケランジェロのダヴィデ像を思わせた。
ジョンはルックスと違い英語が全く話せなかった。僕の方が話せたし、事実英語の点数も僕の方が良かった。
「なぜ英語を勉強しないんだい」
ジョンはこの言葉をひどく嫌った。
「完璧になるにはあまりにも多くの時間がかかるからさ、分かる?」
分かる?と言うのがジョンの口癖だった。それは不思議な事
に、僕には全く不愉快な気分にさせなかった。むしろ心地良く
感じた。逆に彼の言葉の最後にそれがないと違和感を感じるくらいだ。
「分からない」
「君は母国語をネイティブにすらすらと、当たり前に話せない恐怖を知らないからさ」
なるほど、ジョンの言っている事は分からなくもなかった。 僕は日本人のルックスでありながら日本語が話せない。しかし周りの人は次から次へと私にペラペラと話しかける。僕は「こんにちは」がやっと聞きとれるけるくらいだ。その人々はさんざん僕に話しかけた後、ため息をつき残念な顔をして僕から去っていく。これは恐怖以外の何者でもない。
「分かった気がするよ」
「良かった、恐怖だろ?」
●現在●
二人でよく渋谷に行った。何をしに行ったのかは覚えていない。ただ、10回遊ぶうちの8回は渋谷だったと思う。特別気に入った店があるわけでもないし、家が近いわけでもない。おまけに僕たちは人ごみをひどく嫌った。
ただ、渋谷は何かを感じさせてくれた気がする。夢、挑戦、希望。何かでかいことをしてやろうという気持ちにさせてくれたのかもしれない。
●大学1年●
2006年、大学1年の夏休みに僕はスクランブル交差点のスターバックスでジョンを待っていた。真夏でひどく暑い日だったし、この日も大した用事は無かった。せいぜい輸入CD屋でウィーザーやスティーブ・ヴァイといった訳の分からぬ組み合わせのCDを探したり、視聴したり、そんな程度だ。僕はバンド活動をしていたしあらゆるジャンルの音楽をPioneerのアンプで聞いた。
Pioneerのアンプ…
たくさんのアンプを試したが結局これに戻ってしまう。定価でも数万程度のプリメインアンプである。いいものはいいのだ。または「慣れ」かもしれない。ここから学んだ事は「慣れる」ようになればそれは自分にとって「良い」ものだということである。マンネリした彼女にも同じことが言える。
僕はアイスコーヒーを注文して砂糖を断り、ぼんやり外を眺めていた。ガラスだらけの渋谷はもはや自然と呼ばれる物は何一つ無かったし太陽光ですらあらゆる物に反射して僕の目を睨み続けた。信号が赤に変わるとどこからともなく人がやってくる。十秒で信号前の広場はごったがえす。信号が青になると全員が歩き出す。何をそんなに急いでいるのか僕には理解できなかった。それは水洗トイレのタンクのように繰り返す。溜まっては放出、その繰り返しだ。
しばらくすると申し訳なさそうにジョンが来た。
「井の頭線が遅延してさ、すまない」
僕はかまわないと言って、コーヒーを飲み干した。
「さてどこ行く?あ、遅れた代わりに今日の夜女の子を紹介するよ」
僕たちは鼻で笑い合い店を出た。
外に出た瞬間、店のクーラーを恨みたくなるような温度差で一瞬めまいがした。僕はそのときになってコーヒーにミルクを入れ忘れたことに気づいた。
僕とジョンは店を出るといつものように輸入CD屋に向かった。ジョンは世間一般がそうであるようにJポップやパンクを好んだ。それよりもジョンは僕の変わった音楽性に興味があるようだった。
「いつも思ってたんだけど」ジョンはジェフバックリーのレコードをつまみ上げながら言った。
「きみはなぜ詩の入っていない曲なんて聴くの?」
「インストゥルメンタルのこと?」
「そう、ジョーサトリアーニとかスティーブヴァイとか。いつからだい?」
考えてみれば高校生のころから僕の音楽性は少し変わっていた。もちろんおかしいという意味ではなくて普通の高校生が聴く音楽とは少し違っているという意味だ。僕だってできる事なら最新のJポップや格好いい洋楽なんかを歌いたかったのだが、興味が持てなかった。興味の無い歌を無理やり覚えて歌うことはストレス以外の何者でもなかった。おかげで一回カラオケに誘われた女の子からは二度と呼ばれることは無かった。
「昔からだよ、どうしても他に興味が持てないんだ。」僕とジョンはレコードを1枚ずつレジに持っていった。
「それなら無理することないね、興味ないものには手をつけない、それでいい。ただね、もったいない気もする」
僕たちはCD屋を出た。この日クーラーを恨んだのは2回目だった。そして早くも次の行き先に困った。
僕はさっきのジョンの言葉を思い出した。
「あ、そういえばさっき言ってた女の子って」
「ああ、今夜を楽しみにしてて。昨日の夜誘ったんだ。友達さ」ジョンの笑顔が不気味だった。
結局夜まで時間稼ぎをするためにビリヤード屋に入った。ビリヤードというのは本当に暇つぶしに適している。1時間なんてあっという間だ。なぜだかは分からないけれど僕たちはナインボールしかしなかった。
「きみはまだ彼女と付き合っているの?瞳ちゃんて言ったっけ」
「ああ、ジョンは続いてるかい?」
「まあね。これは瞳ちゃんにばれない様にね」
ジョンは自分の彼女のことをあまり話したがらなかった。写真すら見たことがない。詳しく聞こうとしてもいつも上手く話を変えられてしまう。ジョンの話を変える能力は全国でもトップクラスだろう。それほど彼女のことを話したがらないのだから可愛いすぎて誰にも見せたくないのか、その逆か。僕は後者のほうだと思うのだが真相は分からない。
「言えるわけが無いよ、でもお酒を飲むだけだろう?」僕はわざとらしく疑いながらたずねた。
「もちろんだよ」相変わらずにやにや笑っている。
瞳のことは好きだ。彼女はすべてが美しくて、何に対しても芯があるし僕のことをきっと誰よりも理解してくれている。しかし急な飲み会にひょこひょこやってくるような女の子にも少なからず興味があった。
「楽しむけど瞳を裏切るようなことは出来ない、わかるだろう?」
「本当に君はまじめだ」ジョンはやれやれといった感じで玉を突いた。9番の玉が1番ポケットに吸い込まれた。ジョンはいつも以上に調子がいいように見えたが僕はそんなジョンに5戦3勝と勝ち越した。僕は玉を突きながら、実は夜の飲み会がとてつもなく楽しみであった。そんな心を映したスコアだったのかもしれない。ビリヤードはモチベーションが大きく関係することをその時学んだ。
あの夏の交差点に 5
あの夏の交差点に 4
4
●現在●
瞳は僕にとって大きすぎる存在だ。彼女のあらゆる行動、言葉に刺激を受けた。
彼女は高校生の頃、弓道部で部長をしていた。栄養士の大学に入り、勉強に専念しようか迷ったが結局弓道のサークルに入った。それは僕が猛烈に勧めたからでもある。彼女の弓道をしている姿はなんともいえない趣がある。的を見つめる真剣なまなざしは周りのものを寄せ付けない壁のようなものがあった。もし僕の携帯電話でも鳴ってしまったら的が僕にかわってしまうのではないかと思うくらいの真剣さがそこにはあった。しかし僕は瞳の練習を見に行くときは必ず携帯電話の電源を切ったことを最低3回は確認したおかげで僕が射られる事は無かった。二回目だけれども瞳は本当に美人だ。これは僕の惚気話とかそういうものではない。実際彼女には某有名プロダクションからスカウトがあるくらいだった(彼女は興味があったようだったが、怪しいと感じたらしく断わった)。そんなしっかり者で、しかも美人な彼女だけれど僕が一番好きだったのはそんな彼女が崩れる瞬間だった。
●大学1年●
大学に入りたての頃に二人だけで入学祝を町田で開いた。彼女は町田に一人暮らしを始めたからだ。登戸からも大して遠くなかったし、町田は意外と遊べるのだ。余談だけれど東京の人が町田を神奈川県と間違えるのは小田急線の影響だろうと思う(相模大野‐町田‐新百合ヶ丘というように町田駅は神奈川に挟まれている)。東口に出てすぐの居酒屋に入った。大衆酒屋のような雰囲気の居酒屋で店内は賑っていた。
「おしゃれなバーね」
「そっちのほうが良かったかな?」
「いいえ、オオハシくんらしいわ」瞳はやさしく笑ってカウンター席に座った。
彼女とお酒を飲むのは初めてだったし、彼女はお酒自体も初めてだった。本当に真面目なのだ。
僕たちは生ビールを二つと枝豆、チャンジャを頼んで乾杯した。
僕は灰皿を頼んでキャビンマイルドに火をつけた。彼女は必至にビールの苦さに慣れようとしているように見えた。僕はさっさと飲んでしまい芋焼酎と炭酸を頼んだ。彼女のビールは三分の一を残したところで止まった。
「飲もうか?」
「ありがとう。もう私ふわふわしてきたわ」瞳の顔はかなり赤くなっていた。彼女のこんなに緩んだ表情は初めてみた。
「女の子に似合うお酒ってなに?」と聞かれたので僕はカシスオレンジを頼み彼女は喜んで飲んだ。
彼女が楽しそうに一生懸命話している横顔を僕は見つめていた。彼女が笑う、僕も笑う。彼女の部屋の隣に住んでいる一度話すと1時間は止まらなくなる大家さんの話、学校のオカマのような先生や少しクラスがうるさかっただけで全員単位没収宣言をした先生の話。何もかもが面白かった。僕たちは同じ高校だったのだけれど高校時代の話は一切しなかった。暗黙の了解になっていたのかもしれない。僕たちにとって付き合っていた高校2年間はさほど重要ではなかった。
瞳はジュースのようにカクテルを4、5杯飲み今までに見たことが無いくらい顔が真っ赤になっていた。弓道をする彼女からは想像もつかない光景だ。彼女はカクテルのアルコール度数が高いことに気づいたようだった。
「瞳、大丈夫かい?」僕は少し心配になって彼女に言った。
「お洒落なバーに行ってみたいわ」彼女は少しよろっとしながら立ち上がった。
今日はこれ以上、瞳とゆっくり話すことは出来なさそうだ。
*
案の定外に出て彼女は肩を貸さないと歩けないくらいだった。初めて酒を飲んだのならそんなものだ。僕が初めて酒を飲んだときなんて ―それは思い出したくも無いが― 気づいたら福島県の山奥にいた。詳しくは覚えていないのだがどうやら横浜で酔い、トラックの荷台で寝てしまったらしい。そのトラックが福島の陸運会社のものだった。そういう訳で僕は若いながらに酒とは女の子と一緒で、上手く付き合おうと決意した。
僕はとりあえず瞳をどこかで休ませることにした。駅から少し離れたちょっとした広場のベンチに彼女を座らせてミネラルウォーターを彼女に飲ませた。時間は22時20分を過ぎていたし平日だったので僕たち以外誰もいなかった。春先にしては暖かい夜で静かな広場には街灯だけが僕らを包み込んだ。そこでは恨み、競争、慟哭、あらゆるものが無意味に思えた。
僕に寄りかかって休む彼女の姿は僕に訴えていた。
*私は孤独です。助けて、ここにいるよ。ねえ、あなたもなの?私はあなたを信じているわ*
彼女の胸元からはブルーのブラジャーが覗いた。僕はこんなに無防備な彼女を見るのは初めてだと訳の分からぬことを思ったりもした。
僕は瞳に何ができているのだろう、瞳にとって僕は何なのだろう。僕は急に不安になった。僕にとっての瞳は癒し、安心、不思議、喜び、時には怒りである。瞳には僕の感情すべてがあった。彼女にならすべてを表現できた。僕の少し変わった(瞳がそう言う)性格もすべて受け入れてくれる。すべてだ。でも僕は彼女に何をしてきた?なにができる?彼女は僕が思っているほど強くないとしたら?僕はもっと守ってあげなくちゃいけない。しかしその不安は無意味であることは分かっていた。いや、正確には無意味になることを願っていた。
「ごめんね、大橋君」瞳が店を出て初めて口を開いた。
「大丈夫?気持ち悪くない?」ぼくは彼女の顔を覗き込んだ。
「もう大丈夫。調子に乗っちゃったわ。お洒落なバーに行きたかったのに。今度連れてってね。」瞳はにこっと笑った。彼女の笑顔は僕の冷え切った心の中へ一気に入ってきてマッチをすっと擦ってくれた。小さいころに迷子になって、親が迎えに来てくれたあの瞬間に似ていた。
僕は涙をこらえて瞳を強く強く抱きしめた。瞳は少し驚いたようだったがすぐにこう言った。
「大丈夫。不安だったわね。大橋くん、大切よ」
「大切よ」
そのとき瞳が「好き」ではなく「大切」という言葉を選んだ理由は分からない。だけれどそんなことより、やはり彼女は知っていたのだ。瞳がベンチで休んでいる時に僕が不安になっていたことを。
やっぱり瞳は賢い子だ。その日は結局彼女の家に泊まった。彼女を失うとき、僕は無くなる。ゼロ。ゼロになる。
あの夏の交差点に 4
●現在●
瞳は僕にとって大きすぎる存在だ。彼女のあらゆる行動、言葉に刺激を受けた。
彼女は高校生の頃、弓道部で部長をしていた。栄養士の大学に入り、勉強に専念しようか迷ったが結局弓道のサークルに入った。それは僕が猛烈に勧めたからでもある。彼女の弓道をしている姿はなんともいえない趣がある。的を見つめる真剣なまなざしは周りのものを寄せ付けない壁のようなものがあった。もし僕の携帯電話でも鳴ってしまったら的が僕にかわってしまうのではないかと思うくらいの真剣さがそこにはあった。しかし僕は瞳の練習を見に行くときは必ず携帯電話の電源を切ったことを最低3回は確認したおかげで僕が射られる事は無かった。二回目だけれども瞳は本当に美人だ。これは僕の惚気話とかそういうものではない。実際彼女には某有名プロダクションからスカウトがあるくらいだった(彼女は興味があったようだったが、怪しいと感じたらしく断わった)。そんなしっかり者で、しかも美人な彼女だけれど僕が一番好きだったのはそんな彼女が崩れる瞬間だった。
●大学1年●
大学に入りたての頃に二人だけで入学祝を町田で開いた。彼女は町田に一人暮らしを始めたからだ。登戸からも大して遠くなかったし、町田は意外と遊べるのだ。余談だけれど東京の人が町田を神奈川県と間違えるのは小田急線の影響だろうと思う(相模大野‐町田‐新百合ヶ丘というように町田駅は神奈川に挟まれている)。東口に出てすぐの居酒屋に入った。大衆酒屋のような雰囲気の居酒屋で店内は賑っていた。
「おしゃれなバーね」
「そっちのほうが良かったかな?」
「いいえ、オオハシくんらしいわ」瞳はやさしく笑ってカウンター席に座った。
彼女とお酒を飲むのは初めてだったし、彼女はお酒自体も初めてだった。本当に真面目なのだ。
僕たちは生ビールを二つと枝豆、チャンジャを頼んで乾杯した。
僕は灰皿を頼んでキャビンマイルドに火をつけた。彼女は必至にビールの苦さに慣れようとしているように見えた。僕はさっさと飲んでしまい芋焼酎と炭酸を頼んだ。彼女のビールは三分の一を残したところで止まった。
「飲もうか?」
「ありがとう。もう私ふわふわしてきたわ」瞳の顔はかなり赤くなっていた。彼女のこんなに緩んだ表情は初めてみた。
「女の子に似合うお酒ってなに?」と聞かれたので僕はカシスオレンジを頼み彼女は喜んで飲んだ。
彼女が楽しそうに一生懸命話している横顔を僕は見つめていた。彼女が笑う、僕も笑う。彼女の部屋の隣に住んでいる一度話すと1時間は止まらなくなる大家さんの話、学校のオカマのような先生や少しクラスがうるさかっただけで全員単位没収宣言をした先生の話。何もかもが面白かった。僕たちは同じ高校だったのだけれど高校時代の話は一切しなかった。暗黙の了解になっていたのかもしれない。僕たちにとって付き合っていた高校2年間はさほど重要ではなかった。
瞳はジュースのようにカクテルを4、5杯飲み今までに見たことが無いくらい顔が真っ赤になっていた。弓道をする彼女からは想像もつかない光景だ。彼女はカクテルのアルコール度数が高いことに気づいたようだった。
「瞳、大丈夫かい?」僕は少し心配になって彼女に言った。
「お洒落なバーに行ってみたいわ」彼女は少しよろっとしながら立ち上がった。
今日はこれ以上、瞳とゆっくり話すことは出来なさそうだ。
*
案の定外に出て彼女は肩を貸さないと歩けないくらいだった。初めて酒を飲んだのならそんなものだ。僕が初めて酒を飲んだときなんて ―それは思い出したくも無いが― 気づいたら福島県の山奥にいた。詳しくは覚えていないのだがどうやら横浜で酔い、トラックの荷台で寝てしまったらしい。そのトラックが福島の陸運会社のものだった。そういう訳で僕は若いながらに酒とは女の子と一緒で、上手く付き合おうと決意した。
僕はとりあえず瞳をどこかで休ませることにした。駅から少し離れたちょっとした広場のベンチに彼女を座らせてミネラルウォーターを彼女に飲ませた。時間は22時20分を過ぎていたし平日だったので僕たち以外誰もいなかった。春先にしては暖かい夜で静かな広場には街灯だけが僕らを包み込んだ。そこでは恨み、競争、慟哭、あらゆるものが無意味に思えた。
僕に寄りかかって休む彼女の姿は僕に訴えていた。
*私は孤独です。助けて、ここにいるよ。ねえ、あなたもなの?私はあなたを信じているわ*
彼女の胸元からはブルーのブラジャーが覗いた。僕はこんなに無防備な彼女を見るのは初めてだと訳の分からぬことを思ったりもした。
僕は瞳に何ができているのだろう、瞳にとって僕は何なのだろう。僕は急に不安になった。僕にとっての瞳は癒し、安心、不思議、喜び、時には怒りである。瞳には僕の感情すべてがあった。彼女にならすべてを表現できた。僕の少し変わった(瞳がそう言う)性格もすべて受け入れてくれる。すべてだ。でも僕は彼女に何をしてきた?なにができる?彼女は僕が思っているほど強くないとしたら?僕はもっと守ってあげなくちゃいけない。しかしその不安は無意味であることは分かっていた。いや、正確には無意味になることを願っていた。
「ごめんね、大橋君」瞳が店を出て初めて口を開いた。
「大丈夫?気持ち悪くない?」ぼくは彼女の顔を覗き込んだ。
「もう大丈夫。調子に乗っちゃったわ。お洒落なバーに行きたかったのに。今度連れてってね。」瞳はにこっと笑った。彼女の笑顔は僕の冷え切った心の中へ一気に入ってきてマッチをすっと擦ってくれた。小さいころに迷子になって、親が迎えに来てくれたあの瞬間に似ていた。
僕は涙をこらえて瞳を強く強く抱きしめた。瞳は少し驚いたようだったがすぐにこう言った。
「大丈夫。不安だったわね。大橋くん、大切よ」
「大切よ」
そのとき瞳が「好き」ではなく「大切」という言葉を選んだ理由は分からない。だけれどそんなことより、やはり彼女は知っていたのだ。瞳がベンチで休んでいる時に僕が不安になっていたことを。
やっぱり瞳は賢い子だ。その日は結局彼女の家に泊まった。彼女を失うとき、僕は無くなる。ゼロ。ゼロになる。
あの夏の交差点に 4