私と印刷業界

印刷との関わり


私がシールを知った経緯は前回述べました。

今回はどうして印刷業界へ入りどのように関わっていったのか。

私が総合商社に勤務していたころは昭和30年代の良き時代でした。

世は戦後復興も終わり東京オリンピックに向けて成長、発展の途中でした。

私自身も20歳代の夢多き青年であり仕事上もなんでもやってやろうと意気

込んでおり 物資部勤務でしたから 手当たり次第の仕事をこなしてました。

ドイツの包装機械の輸入代理店権の獲得、1号機の輸入販売、総合博覧会での

実演展示、輸入元のドイツ人社長やエンジニヤーと昼夜のお付き合い、等々

印刷に関連する段ボールライナー、包装に使用するセロファン、ポリエチレン材料、

アルミ銀箔、インスタントラーメンの袋、コーヒー、紅茶の包装紙、段ボール箱

などなどなんでも売りまくりました。

こんな中で印刷物を扱うことが多くなり、印刷の業者さんや材料業者さん、印刷物

を購入してもらった資材仕入担当者など多くの方と知り合いになりました。

それぞれの生産工場や包装現場を見学しいろんな知識を吸収していきました。

私は若くて独身でしたので それぞれの担当者さんとも食事や夜のお付き合いも

多く、麻雀やお酒のお相伴で朝までザラでした。無理したもんだと思います。


こんな中 現在生業にしている シールの業界に 興味を持ち始めました。

今まではシールと言えば ラベル,封紙で糊なし、切手式糊付きでしたが

アメリカから感圧性接着紙が輸入され、現在の台紙付きシールが出始めました。

昭和36年結婚し 38年長男が生まれました。

当時ではモダンな公団住宅という2DKの賃貸住宅住まいでした。子供ができても

相変わらず超忙しい商社勤務で午前様が続く日々でした。小さな子供には

「パパは今度いつ来るの」と言われるくらい何日も寝顔しか見ないことがありました。

今振り返ると サラリーマンのささやかな 幸せな 日々でした。


シールとの出会い

私がシールを初めて知ったのは 1962年(昭和37年)の1月頃でした。


当時私は総合商社の物資部に勤務していて機械雑貨などの輸出業務


に携わっていました。


この時代 沖縄はアメリカの統治下で外国扱いでした。琉球政府から


泡盛の納税済証紙としての瓶のキャップシールを作れないかとの


引き合いがあり、全くの未知の世界でしたが多方面調査してシール業界


での2,3の製造会社をさがし当てました。


塩化ビニールのチューブに納税済証紙をグラビア印刷しカット加工、


ヒータートンネルを通して成型するキャップシールでした。


連日ビニールメーカー、輪転印刷工場、シール成型加工工場などの


立会視察しながら製品を仕上げしました。


数量ははっきり記憶ありませんが沖縄全島の納税証紙でしたからかなりの


数だったと思います。



沖縄は外国なので通関手続しての輸出でした。2ヶ月位かかったと思います。


この間シール業者さんとも知り合い キャップシール以外のいろいろのシールや


ラベルの製造工程を見学し 新しいセルフラベル(アメリカ産台紙つき裏糊)が


あるのを知りました。


これが私の 印刷特にシール印刷業界に入る キッカケであり、今後の私の人生


の方向を決めることになりました。