名 雲
字 子龍(しりゅう又はしりょう)
贈り名 順平候(じゅんへいこう)
生没 ?~229
息子 趙統(ちょうとう) 趙広(ちょうこう)
5虎将のうちの一人
あだ名 虎威将軍
趙雲は、自分の州の者は袁紹に従っていたが公孫サンに使えた。
公孫サンが劉備に袁紹を防がしたとき劉備の主騎となる。
劉備はいつも趙雲を評価したため趙雲は自ら彼と深く結びつく事ができた。
趙雲はこの時から世に出ているので劉備とあまり変わらない事がわかる。
無双で趙雲が初登場するのは長坂の戦いでかなり若い。
しかし、計算してみるとこの時35歳以上(管理人の予想では38歳)の年齢であり若くはない。
趙雲の生まれた年は不明だが劉備より年上説があり予想するのも難しい。
趙雲は兄の喪(兄が死んだため?)のため故郷に帰る事となった。
劉備はもう二度と会えないと悟り厚く礼をし別れた。
劉備がもう二度と会えないと悟ったのは自分は放浪のみであるからだと思っていたからだと考えられる。
この後劉備と再開するまで趙雲が何をしていたかは不明であるがギョウに住んでいたようだ。
劉備が袁紹を頼ってときギョウで目通りし同じ床で寝徴兵を頼まれる。
ここで趙雲は劉備と再会し兵を集めその後したがっている。
その後博望にて夏侯淳と公選し夏侯蘭を生け捕りにし長坂では甘夫人と阿斗を救出している。
演技の長坂戦で趙雲は、単騎で突撃しビ夫人を助けようとするが古井戸に身を投げて自殺し阿斗だけを救出されている(甘夫人はその前に救出)。
博望での戦いの前に趙範(ちょうはん)という者が趙雲に自分の兄嫁を縁付けようとするが「同姓であるゆえ、貴方の兄さんなら私の兄さんと同じことになります」と言い承知しなかった。
他にも勧める者がいたが趙雲は、「趙範はせっぱつまって降伏したにすぎないから、心底はまだ測りかねる。天下に女は大勢いるのだから」と言いやがて趙範は逃亡した。
管理人は考える趙雲が断わった理由は趙範の心を見抜いてたからかもしれない。
孫夫人がやりたい放題した時趙雲が取りしきり阿斗をつれて帰ろうとしたとき張飛とともに取り戻し定軍山では陣の門を開け太鼓をやめさせ旗も伏せさせこれを見た曹操は伏兵があると思い引き返すが太鼓を鳴らし弩を曹操の背後から発射した。
これにより曹操軍は仰天し互いに踏みにじりあい漢水(かんすい)に落ちて死ぬ者もいた。
劉備は翌朝、陣内に来て「子龍の身体は全て肝っ玉だ」と言った。
劉備が孫権を攻撃しようとしたとき趙雲は必死に止めるが拒否され戦には出なかった。
229年没