私の住む長崎県は島が多く、教員は本土出身者も島での勤務を経験してきた人が多い。

 私も6年間対馬での教員生活を送った。独身で3年間の一人暮らしの日々と、島内で転勤し、結婚した後の3年間の新婚生活のことは忘れられない。

 身寄りも知り合いもなく、独り身で渡った当時、薄桃色の優しい色をしたゲンカイツツジが迎えてくれた。本来寂しがりやの私が、まだ寒さの残る春の島に温かさを感じ、なぜかここでやっていけそうな気がした。

 そして、それは人々の温かさと同じだった。
 
 学校が始まり、すぐに子どもたちが毎日のようにやってきて一緒に遊び、寂しさも解消された。散歩したり、釣りに行ったりしながら、子どもたちに地域とその良さを教えてもらった。また、豊かな自然に囲まれて、趣味である山歩きを愛犬と共に十分堪能した。鹿狩りや野生ラン、山菜採取も経験させてもらった。

 地域の人々も、いわゆる「よそ者」の私によく声をかけてくれ、何かと世話をしてくれた。一人暮らしの食事も苦労しなかった。週に二回は誰かが何かを持ってきてくれた。魚や野菜だったり、よく一食分のごはんとおかずを膳に入れて持ってきてくれたりもした。最初に住んだ住宅の隣の老夫婦やその近所の人々には「家に飲みにおいで!」「風呂に入らんや?」と頻繁に誘ってもらったりもした。

 また、まだ若い私は地域で失敗もしてよく叱られ、諭されることもした。(内容は秘密!)

 

 3年が経ち、島内を転勤し、家庭を持った。

 専業主婦となった一人家で待つ妻は私の地元から来たものだから、やはり、全く知り合いはいなかった。そうした妻に、気軽に声をかけ、親しくしてくれた奥さん方も多かった。家族ぐるみの食事会もあって楽しませてもらったりもした。すぐに慣れて寂しい思いをさせることはあまりなかったと思う。

 

 中でも行商して回っていた魚売りのおばあさんは、妻の出産を伝えた時、売り物である荷車の中のいっぱいの魚(私のところがほとんどその日のスタートらしかった・・・。大きなメジナだけでも20匹はあったと思う)を、
 「お祝いに全部やる!今日の商売終わり!」
と大喜びでくれたこともあった。(実家へ送った。すごくうれしかった)

 出産後連れてきた長男を、教え子の子どもたちも含め、地域の方々は優しい目で包んでくれ、よく遊ばせてくれたりもした。

 教員は転勤族である。勤務地に住み着くことは少なく、長崎県では自家用車での通勤がほとんどである。しかし、たとえ住み着くことはできなくても、赴任地ではその土地の住人のような自覚を持ち、進んで人々と接し、教育にあたることが大切なのだということを離島勤務で学んだ。

 対馬を離れてほぼ四半世紀。

 

 あの頃の忘れ形見はもうほとんど私の手元にはない。わずかばかり残った野生の花々とヒトツバタゴの木が庭に息づいて、花を咲かせるたびにその頃を思い出させてくれている。

 

 だが島の自然や出会った人々とのことは、時が過ぎても色あせず、ずっと私の人生の中のキラキラ輝く美しい、最高の思い出となって残っている。