シュトウ ケンイチ ブログ

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シュトウ ケンイチ シュトケン ブログ

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先月から、月に二曲ほど、この二、三年の間に書き溜めていた曲、最近出来上がった曲を【薫風微吟】と銘打ってsoundcloudでアップしはじめました。


自分自身の中で大きな変化と新しい試みとしてスタートさせています。


ただ、曲を作って歌っているので、何ら、かつての自分と変わらないように思われても仕方ない。


大きな変化、を端的にいうと

自分は主役を降りた。

そして新たに楽曲を主役にした活動を始めた。


かつては、

ひとつの楽曲を歌うにして、

楽曲の世界観を背景に、いかに自分を表現するか、いかに自分らしさを 喜怒哀楽を演じてみせることが出来るか、が、テーマだったし、そこを支持し、期待してもらってたのだと思う。同じ舞台に立つと言えど演奏家とは違い、歌手とはそういうものだと、それに関しては今でも、一旦舞台に立てば歌手とはそうあるべきだと思う。


では、今は。

ことば、を主役に据えて活動したい。

自分は、作品の作り手として、演出家として、それを表現するための役者(歌い手)として、その歌に携わりたいのです。


最前面に、楽曲があるのか、自分があるのか。

絵面は何も変わらないが、その入れ替えは、今まで、我が我が、とやってきた自分にとってはとても大きいし、挑戦なのです。決して消極的な態度ではなく。



それで、【薫風微吟】をスタートさせています。



覚悟を決めて言いきるならば、

軸足を「音楽」から「文学」へと変えました。

多少の誇張はあるものの、本音に近い。

歌にしても、詩作にしても、表現する中で自分の一番近いところにあるのは「言葉、言語」です。だからもう一度、ことばと向き合ってみたい。

こう言った事を言って批判されることや、嫌われる事はもちろん覚悟の上です。

ただ、そういった覚悟を持って、進めていかなければ、しっかりと舵を切り帆を進めていくことはできないと思っている。



俳句や短歌のような日本的様式美を持つ、

8小節に4行の詩にまとまった、それ自体が、韻や律を持つような、

掌歌(しょうか)というか、掌(てのひら)にのせれるくらいの小さな歌をたくさん作っていきたい。

詩、というリズムを持った文学的作品を作っていきたいし、それを演出するための音楽的アプローチを工夫していく。そんな取り組みをしながら日々を送っています。


いくらこのようなことをこの場で言ったところで、実際歩みを始めたばかりだ。歩みを重ね、一歩々々が一筋の軌跡を作り、道として見れるようになった時、初めてこの想いが伝わるのであろうし、そうなるように日々作品作りに取り組みたい。


今までには考えれないくらいの未発の曲のストックと、日々生まれてくる作品がある。それを原資に淡々とコツコツ進めていこうと思っています。


月に二曲、は、

24節季の暦の変わり目に合わせてアップしています。


使ってるサイト、soundcloudがあまり一般的でなく、日本語サポートもないので、自分としても扱い辛いところがあり、

歌詞も見ながら歌も流せる、もう少し使いやすい閲覧しやすいプラットフォームへの変更も考えておりますが、とりあえず、次のアップは

4月20日【穀雨】

を目処に、録音作業に取り組んで参ります。




この騒動が始まって以来、このブログではそれに対する批判ばかりを訴えてきたわけですが、最初から、非参加・非協力を貫いてきたし、これからもそれを通していこうと思ってます。


我々芸術家は、日々の生活のためにその道を選んだわけではなく、

志に導かれ、この道を歩いている。

それは自己の実現でもあるだろうし、社会に対して何かしらの訴えでもある。

日々の暮らしがままならなければ元も子もないだろう。。と年がら年中嘆かれながらも。


そんな中で、この約1000日間、

自分にとって、自己の実現とは何か。

社会に対しての訴えとは何か。

群れから離れ、村から離れ、無理を離れ、

ひとり居の中で考えてきた。




自分としては少々控えめに慎み深く

世間様からすると、たいそう大袈裟に聞こえるかもしれないが、


一戦士として、この動乱を戦わなくては芸術家としての真価に達しない。


道半ば、野垂れ死ぬとしても、囚われて牢獄に放り込まれようとも。

生まれてきた意味がないのだ。



平時ではないな。と、思うのです。

なのでやっぱり、活動の方法も変えて行く時だと思った。

その、やり方、を求めた時、たどり着いたところは、


純粋な自分。混じり気のない、

純度の高い自分。


前回も書いたかもしれないけれど、

自己の在り方。

というところだ。



そして、

この場においても、声を荒げて社会に対しての批判や文句ばかりでなく、


心新たにして、

少しずつ、作品も発表していきたいと思います。


戦わずして、戦う。ことでもある。


自宅が主な作業場になると思うけれど、録音の準備も少しずつ始めていきます。

たくさんの曲ができている。

こんな気持ちで、こんな感じで作品作りや、表現にこだわってやってる。みたいな話もしていきたいし、でも作品を出さないことにはあまり意味がないので、録音の方法や発信の方法など考えながら、

しっかりと作品を携えて、自分らしく、この動乱に立ち向かう構えを作っていきたいと思います。



そんな次回の更新がいつになるのか、自分の中の目標も目処もないけれど、

自分の歩幅と自分の呼吸で、


あらたな心地で、このブログにも取り組もうと思います。








偽善で、欺瞞に満ち、あからさまな矛盾に気がつく事も、指摘する勇気も判断力もない大勢の人たちから、


単純に、正直で健康な人に対して


化学製品だか、工業製品だかわからないが、薬品とされるものの接種や、マスクを同調している不思議な世の中。


議会でマスクから鼻を出していた議員の辞職のニュースを

一切マスクをしていないキャスターやコメンテーターがその是非について議論をする。

ひとつ飛ばしに制限された待合室の椅子から満員電車に乗る。




もう、2年くらいか。

出来るだけ、そんな社会から、、

自分なりの「ソーシャルディスタンス」

「社会との距離」をとり、最小限の人との関わりの中で暮らしている。



やり方、よりも「在り方」。

自分がどうやるか、よりも、

自分はどうあるべきか。


ただそれだけで生きてきたし、今も常にそうしている。


ロックシンガーはどうあるべきか、

いや、

ロックスターだ。


ロックスターはどうあるべきか。


そんな「在り方」をまず考え、

その後に、やり方を考えてきた。


在り方を無視して、やり方を選べば、

もっと媚びる事も出来たかもしれないし、もっと人気者になっていたかもしれない。


でも、それは、選ばない。選べない。


在り方が定まれば、やり方は自ずと決まる。


逆に言えば、

先にやり方が決まれば、在り方は自ずと決まってしまう。



自分がどうあるべきか、について、

やり方によって左右される自己ほどみじめな人生はないと、個人的には思う。


選択や、判断を迫られることも多くなるこれからを、

改めて自問自答しながら自分なりにやっていこうと思う。







オリンピックに限らず、スポーツを観るのは楽しい。

ただ、オリンピックは、関わる全ての人たち、もちろん選手も含めて、ほかの国際的な大会に比べて、政治に翻弄されすぎて気の毒に感じる事が圧倒的に多い。


そんななか、当のTOKYOは緊急事態宣言とかで、(大阪もなんだけど。)


この緊急事態宣言に、

「意味が無い。」


と思ってる人が90パーセントくらいいるらしい。


何度も何度も、「意味のない規制」にうんざりだとか。



でもー。。


民衆主義なのでね。

民衆の程度が、政治の程度に反映されますね。


なんだかんだと、行政に決められた事に文句つける前に


自分自身で行動の判断を決定もできるマスクの着用くらい、意味があるのかないのか判断して行動に移してはどうか?


単独、誰とも喋らず、外で、この暑い中、どれだけの人がマスクをしてるの?


夏になれば流石に暑いし外で1人でマスクしてる人も減るだろうと思ったけど、

この暑いのにガッツリみんなしてるのね?


何のため?

しゃべりもしなければ、団体でもない。

もちろん咳もくしゃみも出ないんでしょ?


自己規制として、無意味な対策とってる人が、

規制されたと、無意味な政治判断を批判してるんだからね。


あー、なるほど、この支持基盤が、


今回の緊急事態宣言とか、

ナントカ法の延長とかで、

やってます!的に、飲食店に時間と

お酒の都合つけてもらうだけの政治判断をするのだと、

とてもスッキリよくわかる。


ちなみに今年の熱中症の救急搬送の件数は去年の3倍近いです🥵



涼しい夜明けの時間も束の間、夏の日差しは躊躇するこなく街に降り注ぎ、一気にウェルダーンになりそうな夏の午前です。



この暑い中でも、ほとんどの人がマスクをしてる。

野球が好きなので高校野球の県予選の中継とか垂れ流しで見てるけど、

応援の人や、学生、チアガールの女の子、みんなマスクしてて、



これは良い事なの?

何が、このご時世、、なの?

違和感ないの?

ないんだろうね。




自分の考えとしては、

そこまで飛沫と言うならば一人で黙って駅まで向かう道中、電車の中で一人静かに座ってるときくらいマスク外したら?と思うけど、自尊心も度胸も、受け入れられぬ、と抗うエネルギーもないんだろう。



他人に感染させないため。なんて欺瞞めいたフレーズに自分を納得させながら、結局は自分の体裁の為。


自分の体裁を守るためにしている防御行動を、あたかも他人を守るためと理由づけてもっともらしく言ってるのは、


卑怯だ。


あなたの事をを思っての行動です、と、うわべで言いながら、自分の利益に繋げる狡猾さは詐欺師だ。


学校の体裁、企業の体裁、、個人の体裁、


そんなもののために、この暑い中でマスクして、させて、


子供たちの健康を損ねることも、若者から夢を奪う事も、個人の積み重ねてきた努力を奪うことすら厭わず、対策してますアピールしてみっともない。


恐るに足らぬ感染状況と、

この日差しの中で恐れるべき健康問題と、きちんと天秤にかけれないような、こんな狂った世の中に、布切れ一枚顔につけて媚びてる人を見ると失望する。


媚びてるんだよ。

何が感染対策だ。


本当に恐れてマスクを勧めたり、つけたりしてる人がいたら、自分のセンスを疑った方がいいと思う。



いま、生身のままでは、一人一人の存在は

他人に対して、社会に対して「敵」「悪」としてしか存在出来ない。


マスクを着用してない以上は。


どんなに健康であれ、

たとえば、

ワクチン接種も2回済ませましたし、パスポートも発行していただきました。PCR検査も先程陰性が出て、体温は36度2分。

心も体も健康です!


なんて言ったところで、


マスクの着用をお願いします。


と言われる、し、言われる前に自からマスクをしっかりつける。



マスク。

感染対策云々よりも

何をどうしようが、何がどうなれ、

こんな夏空の日差しのもとでも、

他人と会う時、社会に出ていくには

免罪符、としての、

この狂った世の中の通行手形として、

他人にに、社会に、

私は危害を及ぼしませんよ。という心の証明はマスクをつける事でしか出来ないようだ。


そして

その証明がなければ、「タイタニック号」には乗船させてもらえない。

その船に乗れば、ライブハウスや劇場娯楽施設も、医療施設も、教育機関もなんでも揃って、世界中行きたいところへ行けるらしい。

ただ、その船は沈む。

確実に沈む。

オリンピックや何やら、そんなものの不合理な状況を見ても、この豪華船が安全だと信じてるひと、、沈むと気づいてはいるのにその船に乗ってる人たち、、


時に波と闘い、潮に流されまいと長文のブログやなんかを書きながら、ささやかな抵抗や格闘をしながら、この時代を漂流している俺の小さなイカダを見下ろして、何を思う。


哀れと思うなかれ。


笑顔や笑い声が、世の中をあかるくしてきた時代は終わり、

顔の半分を隠しながら、ひそひそと欺瞞的に生きることが、この社会の安定へと変化していくのなら、その船には乗らないよ。


このイカダで充分だ。







夕方や夜の間に、ざっとひと雨通り過ぎてくれるおかげか、

明け方の風は涼しくて、今朝は朝日も綺麗で、蝉も元気よく鳴いています。


いったん、ライブ活動を終了して、再開の見通しも立てておりません。


この一年もゲストで呼ばれるものや、スタジオでの仕事以外、自分主導や自分がメインになるものは断ってきた。


だからと言って、自分が芸術活動や、表現の活動を休止してるわけではない。


少し、世の中や、社会といったところから離れて、それを観察し、自分をみつめる時間になっています。


それが可能なのが芸術であり、芸術家であって、

経済的な自立や社会的な地位を目的にするならば、もはやそれは芸術でもなければ芸術家でもない。

世の中に認められた時に、お金であったり名誉を獲得するだけの事で、日々の活動にとって、そういったものと無縁であることが純粋な芸術だと自分は思っている。


かと言って、色んな人の支えでなんとかここまでやってきたのだから、その恩には報いたいし、借りは返していかなきゃならない。




この春くらいから、何度もマスクの事で見ず知らずの人と悶着し、

ワクチンのことで親戚や兄弟とも後味のよくない議論をし、



わかっていた事ではあるが、


いまの、この世の中からすると、

自分は、明らかな変人であり、異端なのだと思う。


ただ、多くの人(多くの人、と言っても多数派ではないかもしれないが)は、自分と同じように、この世の中や社会がおかしいと感じているようにも感じる。


これはおかしいよ。


そう感じるならば声に出すべきだし、行動に反映させていくべきだ。


それぞれ立場もあるので、実際なかなかそうはいかないと思うけれど、


自分は、芸術家である以上、

そして、「ロック」を標榜してきた以上、

今こそ、この不条理な体制に対して真正面から向き合う生き方を選択し、表現するべきだと思っている。

それが出来ないのならば、もう、芸術やロックを語ることになんの意味もないし、芸術やロックに失礼だ。


なので自分は、納得出来かねるおかしなお願いには従わないし、自分の中でしっかりと考え、そして、行動する。





で、

これからのこと。になるけれど、


ライブに関しては、自分が納得し、お客さんもそれに合意してくれても、

場所を提供してくれるお店はやはり、行政の下、営業してるわけなので、色んなことを考えると、今無理に工面してやるのはやめとこう。と思ってます。

行政の許可を得ずにお酒出したり食事を提供してる店ではもともとやるつもりもないし。


そもそも、歌う俺がマスクしてないのに、静かに聴いているお客さんがマスクしている事自体、馬鹿げている。ここに異議のある人はほとんどいないと思うが。

そういう場所に自分が中心になって立っている事自体、自己嫌悪で苦しむ。


でも、現状、お店はそれを受け入れなくては営業出来ないのだからね。




何かしら、表現や発表の場を見つけていきたいところだけど、

この社会状況と関係なく、

自分の中に、


表現したくて!

発表したくて!!



そんなものが充満した時に、この殻を破れるのかな。と、思います。

ぬるぬるゆるゆると続けてきたところに、ひとつ、大きな負荷とストレスを感じて、自分の中に込み上げるものある。



芸術は爆発だ!



コツコツ進めていこうと思っています。





ブログ書こう書こう、と、途中まで書いては、下書きフォルダに保存していたものが多数。。


やー。アップしなくてよかった。

コロナ芸人に成り下がるところだった。





久々のライブ告知です!



ちょこちょこと、ご一緒させてもらってる初輝さんと。

各方面で評判が良く、今回は、バンドメンバーの先輩方の力添えもあり、

がっちりワンステージ組んでみます。


日曜日の夕方からですが、ぜひいらしてください。


お待ちしております。





みんな、どうしてますか?

窮屈で退屈で息苦しい毎日に、不平も不満も言えず、疑問に思うことすら許されない雰囲気の中、上手にバランスを取りながら日々を過ごしているんだと思います。




ライブ告知です、と、言いつつも、

告知できるライブは上記の一本と、

高槻ジャズストリートだけですが、


じっくり、ゆっくり、自分と向き合いながら、自分の作品、ステージと向き合いながら進めていこうと思います。


チケット予約は↓↓こちらから。

『シュトウケンイチ ライブ情報』※この記事は不定期でブログトップに表示されます。新着情報にはNEWを表示しています。時間料金など詳細情報が表示されてないライブは決定次第追記致します。※チケッ…リンクameblo.jp




久々の更新です。

あらゆる不満に対して批判的な投稿をしていた時から数ヶ月。今でも思ってることにほとんど変わりはないし、世の中もほとんど変わりはないように思う。

ただ暑い夏が過ぎ、二、三日続くこの雨でまた季節が変わる。


あちらの正義とこちら正義がぶつかり合えば、結局のところ終わりはなく、それぞれの行動や発言はそれぞれの正義の炎に、よく燃える油を注ぎ合うようなものだ。


歴史を振り返っても正義という名のもとにしか戦いも虐殺も起こらなかったし、

正義という名のもとに日本に原爆が、中東にミサイルが、、ぶち込まれてきた。


正義なんてものはろくでもないものだと認識したうえで、自己の正義感と向き合いながら生きていきたい。


日本人全体の社会的意識、社会道徳意識の高さは素晴らしいな。と思う。

ただ、それは「高さ」であって、「深さ」「深み」ではなく。

信仰心がないからだ。

その代わりに目まぐるしく変化、進化していく科学や技術、情報などを信仰する。




さて、

夏が終わって涼しくなってきたので、毎日早く起きて河原へと出かける習慣を復活させました。

今日は雨降りで風も強いので、外には出ずにこうしてブログを。



















また少しずつ記事をアップして行こうと思います。


自然と向き合うのは心が洗われます。


日暮れの光の美しい時間よりも、夜明けの光の美しい時間は圧倒的に短い。


夜が朝に変わる、その一瞬だけの幻想的で神秘的で荘厳な光彩の中に僕は立っているんだ。という気持ち(気持ちではなく、実際にそうなのだけど。)はとても贅沢です。

※この記事は不定期でブログトップに表示されます。

新着情報にはNEWを表示しています。
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現在決まっているスケジュールはありません。



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シュトウケンイチ
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あんまり耳慣れない言葉かもしれませんが、かびゅうせい、です。

知識で物事判断したり考えても必ず誤りがある。というようなことです。

釈迦に説法の人もいるかもしれないし、
へー、と思ってくれる人もいるかもしれないし、

耳慣れない言葉使ったり横文字使ったりするとあんまり人から良い印象を持たれない事も承知ですが、
そんな事気にして、わかりやすい言葉を探したり選んだりしてる自分の方が醜いや。と思うので、自分の頭の中にある言葉をそのまんま使います。
でも、コンプライアンス、とか、イノベーションとか、コンセンサス、とか、ワケの分からんカタカナに関しては、そこは、調べてでも、きちんと、法規とか、革新とか、合意とか、日本語にしてから使いたいと思う。100年以上前に、福沢諭吉先生らをはじめ、文明開花の知識人たちがきちんと素晴らしい格式を持った日本語に翻訳してくれている。

まあ、でも、「ギター」とか、「ルール」とか、「パソコン」とか、そのまんま使うが、その辺の線引きを自分がどうとるのかを自分で興味深く観察してみたりも面白いです。「キッチン」とするか、「台所」とするか、どうでも良いとこで選択に迷うのは自分の頭の中の作業として楽しい。



前置き、長くなったけど、今日は将棋のニュースをみて思った事。



もし、将棋の神様と将棋の神様が勝負をしたら。

という話なのだけど。


結果は、
先手必勝、若しくは
千日手(何をどうやっても千日かけても勝負がつかない局面)
と言われている。

間違いや過ちを絶対に犯さない、神様同士が戦えば、勝負は最初の振り駒、
つまり、どちらが先に打つか決まった時点で

勝負アリ。

ってことになる。らしい。

つまらーん。


50年くらい前の評論文で読んだことなので、スーパーコンピューターとかが出てからはもっと解明されてるかもしれないけど。



人間の頭脳レベルでは、どんな天才棋士といわれる人たちでも、高度なところで、普通の人には気付かない勘違いや読み違いを犯すから、そこに勝負のあやが生まれる。

そして、そこに感動がある。

スケートの4回転ジャンプが飛べるロボットが登場しても、
やはり、スケート選手がジャンプして着地する時の興奮を求めるし、
自動演奏機能のピアノ伴奏よりも、ピアニストの演奏のほうが感動すると思う。

(そういう機器を開発してる人とか、その分野が好きな人は、そこにまた感動や興奮もあると思うし、俺もそんなロボットを見て感動する。)


未熟さや過謬性、それがあるからこそ、人生は豊かで楽しいんじゃないかな?と思う。
未熟だったり間違えたりすることがそうなのではなく、それを克服しようとする姿であったり、克服したものに惹かれる。

色んなところで誤ったり失敗したりする可能性を秘めているからこそ、極めれば極めるほど奥深い道になるね。


追記:
それがあるから楽しいということは、
それがあるから苦しいでもおんなじだね。

これがあるから苦しい、と思うようなことも、これがあるから楽しいと、そんなふうにも考え得る。